月が出ていた。
確か愛しい者がその力を認められ、自分の手から離れ歩き出したのも、こんな月が綺麗な夜がきっかけだったと聞いている。
一杯、杯を空けた。少し冷たい風も今日は心地よい。
投ぐる箭の 遠ざかりける 面影は 舞い落つる花に 音を訪ねる
「神崎さん、貴方らしくないですね」
「中将か…」
思わず声にしたその唄に、感心したそぶりで米田が姿を現した。酒を手にしていないが、その場をちゃかすように軽めの物言いをする。
「ずいぶん風流なものを詠むものですな…今更恋唄でもないでしょうに」
当然翁が読み上げた唄は、恋唄などではないのは承知している。どうせ彼のことだから、彼の最愛の孫娘すみれを詠ったものだろう。
髭に被われて表情は見えなかったが、図星を指されたのであろう、あわてて否定する。
「馬鹿なことを。儂にはもっと大切なものがある」
「そうでしょうな。貴方には護るべきものが多すぎる」
用意してあった杯に、手酌で酒を注ぐと一息に煽る。
思ってみれば、いつから自分達は護るもので手一杯になってしまったのだろう。そんなことを翁にいいながら、米田も自分の身を振り返る。
少なくとも翁には神崎重工を初めとする自分の帝国、日本の経済界。そしてその大元を護る義務がある。
自分は護ろうとしたものを全て失ってしまった。
神宮寺 一馬、今はもう行方が知れない山崎 真之介。命令という名の下に散らせてしまった若い者達。
今でもふと傍らを見ると、懐かしいままの彼らを見ることが出来る。その度に、後悔と同じ事しかできない自分の無力さにさいなまれる。
つい口に出す言葉も、そんな嘆きのものだった。
風の音の はるけし都の 戦場に 巴御前らの 影のみぞ見る
「また感傷的な唄だな」
「翁は親族として恨んでいらっしゃるかも知れませんが、私だって辛いんですよ。あの闘いと同じものが繰り広げられてると思うとね」
米田はそう言いながら遠い目をした。かつて妖魔と闘った大戦のことを思い出す。自分は傷つかずに送りだしている、そんな気持ちで一杯だった。
「解っておるよ。儂らが育て上げている化け物達を、君たちがはらっていることはな」
皮肉なものだと言わんばかりに、翁の手の中の杯のものが空けられていく。経済で勝ち抜くと言うことは、負けた者の怨嗟を作ることだ。
公式には発表される事はないが、恨みという感情がこの帝都に住む者を脅かす降魔を生んでいるという話は、上層部にいる彼らはよく承知している。けれども、活動を止めることは許されない。
もう既に夜も更け、手元にある酒も底をつきつつありながら、今初めて本題に入ったかのように、翁が問いかけた。
「で、君の子供達は浄化するのか?それとも消滅させるのか?」
出来るならば、浄化して欲しい。何度も功績を挙げた戦場での惨状を思い出す度に米田はそう願っている。しかしその浄化のためには、そのもの達の声を聞き、それを受け入れなければいけない。
それは自分の内面を掘り起こさなければならないほど、辛いことだろう。怨嗟というものは、自分の醜い感情そのもののことだってあるのだから。
「浄化してくれればいいな…儂らが出来ないことが出来ると信じたい」
黙りこくってしまった米田の心の願望を、代弁するかのようになおも言葉を続ける。
斬り合えばすむと、この組織を作った当時は思っていた。しかし闘いが続き、尊い命が失われて初めて解った。
それだけではならないと。
「だからこその芝居ですよ」
人の嘆きが消えることは決してない。光が当たれば当たるだけ闇が出来る。これから帝都が発展していく行く上で、これは決して避けられない。
「人の心を和ませれば、闇も薄らぐというのか?」
「芝居というのは伝わりますからね。貧富の差があって見ることが出来なくても、誰かが伝えてくれます」
「それならば…儂にも少しは手伝えると言うことだな」
「翁?」
しばらく考え込んでいた翁が、一言呟いた。米田も眺めていた月から、視線を外して、彼の方を見た。
「いつか君の子供達が帝都に愛されるようになったとき、もう芝居すら手が届かなくなった者たちのために何か出来るよう手配しておこう」
残りわずかになってしまった酒を全てわけてしまうと、米田の前に杯を差し出した。
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