- Manhattan -
階段を登り切ったところで、振り返り異常がないことを確認する。階段にある窓も含め、すべて異常なし。
帝国華撃団花組隊長である大神の一日の最後の仕事、現在の彼の居場所である帝国劇場の見回り。一階部分はすでに終わり、支配人にも声をかけた。
「あれ?」
頭の中で先ほどまでの順路を思い出している内に、何かおかしいことに気がついた。目の前にある隊員達の自室に人のいる気配がない。
午後9時40分。消灯をすぎているのに寝付けなくて、部屋の外まで聞こえている声の代わりに、サロンの方から楽しそうな声が聞こえてくる。いつもだったら見回りに訪れる前にマリアが場をお開きにし、部屋に戻っているのだが、今日は珍しくそんな声もしていない。
「みんな。もう消灯時間だよ」
懐中電灯を消しながら、サロンの方へ入ってきた大神に、すっかりくつろいだみんながあわてて時計を見直す。
「もうこんな時間ですのね。私はそろそろ失礼いたしますわ」
「でもこんなきれいなの飲むのもったいないね」
「マリアがこんな特技を持っているなんて知らなかったよ」
そんなことを言いながら、また各自持っているグラスに見入っている。一人一人にあわせて作ってもらったのが、うれしいのだろう。その気持ちは大神もよくわかるので、味の変わらない内にとだけ言って、サロンを後にした。
彼女たちの話からいって、まだそこにいるはずのマリアに会いに。
グラスがカウンターにふれる音、シェイカーの振られる音、グラスの中の氷が鳴らす音。その音がまず大神の足を止める。正面を向いたその視線を音が鳴った方へ向けると、備え付けられたカウンターの奥に探していた人の影を見つけた。
少し何かを考えるようにグラスを口に運んだかと思うと、手元のあるらしいメモに何かを書き付けていく。その仕草は自然すぎてそこに何年もいるような気がしてくる。
「こんばんは、一杯いただいてもいいかい?」
あくまでさりげなく席に腰掛けて、マリアの顔を見ずに声をかける。どうしてこのようなことをしているのか少し疑問だったが、それを聞くことや消灯時間を注意することよりも、もう少しだけこんな夢中になっている彼女を近くに見たかった。
「何になさいますか?」
静かだが急に訪れた客を心からもてなしてくれる暖かい声。返された言葉はいつも大神に向けてくれるような、はにかんだような声ではないが、不思議に落ち着けるそんな声だった。
「そうだな…ギムレットを」
「英国の海軍で出来たんですよね。海軍の方ってよくこれを頼まれます……あ、た、隊長?」
「もうお客さんは帰ったよ。その様子じゃ、みんなに振る舞ったことも覚えてないだろうね」
笑いをこらえながら、大神はマリアを見上げた。視線の先の彼女はひどく恐縮しながら視線を逸らしている。
そうなのだ。普段は非常に冷静で、どんなことにも落ち着いて対処しているのだが、ごくまれに夢中になれることにあうと、周りのことも見えないくらいに打ち込んでしまう。
「初めは余興のつもりだったのですが…楽しくてつい…」
照れているのをごまかすかのように、マリアは手元にあったグラスを手に取り磨き始める。けれども視線だけは自然に大神の手元に向いた。
一口を口に含んで、そのままグラスをあおる。少々急いで空けてしまったかとも思わないでもないが、マリアの方を見るとうれしそうな表情をしていた。
そのまま次の注文をしようと、気に入ったカクテルの名前を思い出している内に、ふとあることに気がつく。先ほどからマリアが酒瓶の列に目をやるときに、ある一本の瓶のところで目を留めていることに。
「次は何にしますか?」
大神が次のものを考えているのを察して、マリアの方も声をかけてくる。やはりある一点を眺めながらだ。
「そうだな。マリアの思い入れのある奴を」
その言葉に難しいですねと苦笑しながらも、先ほどから眺めていたはずの酒瓶を手にとって、鮮やかな手つきでグラスの中に、琥珀色の液体を満たしていく。その色も気になったのだが、周りに広がったその香の方が気になった。
「珈琲?マリア珈琲なんか飲めたっけ?」
その疑問を出したのと、大神の前にグラスが置かれたのはほぼ同時。
「飲めたと言いますか、飲めるようにされたと言いますか…」
少し懐かしそうな目をしながら口を開いた彼女を促して、続きをねだった。今からしばらく前、海を隔てた遠い国であった出来事だと前置きして、マリアはその話を始めた。
- Black Russian -
すべての面でという意味ではないが、その街はマリアが一人で生き抜くには過酷な環境だった。
気候からいって、彼女が生まれ育った土地とは全く違う。すべては自分の破滅のためではあるが、生き抜くことだけがマリアの毎日の目的だった。
「また、飲んでるのか?」
そんなことを言う人は、今ではごく限られた人だけになってきた。今の言葉もその一人。マリアが差し出したショットグラスに、ウォッカをつぎながらそんなことを言う。
「商売がうまくいっていいだろう?」
マリアが表情も変えずにそういい返すと、気むずかしそうな顔をさらに気むずかしくして、味のわからん若造にかぱかぱ大事な酒を飲ませられるかと苦言を言う。
At Ta'ifという変わった名前のこの店に、マリアが用心棒として居着いたのは、数ヶ月前。雇われたと言うよりは、拾われたという言葉がぴったりだった。いろんな事情で動くことの出来なかったマリアを、世話してくれたこのオーナーが用心棒にといったのも、一度この店が襲撃をされた時に、マリアがその冷静な判断力で、最小限の被害でくい止めたからだ。
「栄養を酒から摂ろうとしても、先に体の方がだめになるぞ」
オーナーの方もため息をついた。マリアは用心棒としての腕はいいし、いろんなことを教えると、真綿が水を吸い込むようにすぐにものにしていく。
これだけ言うと、頑固者の彼としてもほめすぎだという感がないではないが、マリアの刹那的なところがすべてを壊していることも気がついていた。
そんなオーナーの心配をよそに、それ以上の苦言を聞きたくないと言わんばかりにマリアは席を立った。そして、外の見張りに行って来ると言い残して、姿を消してしまう。その少しふらつきながらの足取りを見ると、彼女の姿が消えた後に小さくため息をつき、琥珀色の酒瓶を手に取った。
確か数ヶ月前の頃だったと思う。この土地に流れ着いてから、どうしても珈琲という飲み物になれることが出来なかった。確かにきちんとしたものなら、受け付けることが出来たのだろう。だが、彼女がいたスラムでは飲めるだけましというものでしかなく、独特の風味が受け付けられなかった。
その頃になるとマリアも用心棒という仕事柄、酒の味を覚えそれで動けることを覚えてしまうと、きちんとした食事をしなくなってしまう。動くエネルギーをとれるなら、簡単にとれるもので摂った方がいい。そういう結論に達していた。その害がどのようなものかもわからずに、今の自分の体調がおかしいのも、そこに起因しているとは考えもしなかった。
「マリア。ちょっと来て見ろ」
そんな問答がしばらく続いた後、オーナーがマリアをカウンターに呼びだした。
座らせるとちょっと作ってみたということで、目の前に琥珀色のグラスを差し出された。
「ウォッカと…なんですか?これ」
「カクテルという奴なんだが…飲めるかこれ?」
最近潜りの酒場で流行っているその名前は、マリアも聞いたことがある。飲みにくい偽造酒を飲みやすくするための工夫で、数種の酒を混ぜ合わせるというものだ。
この店ではそんな偽造酒を一切置かないと言う方針で、そんなことをしなくても十分やっていける店だ。なのにどうしてという気持ちがしないではなかったが、オーナーの道楽なのだろうということにして、つきあうことにした。
そんな日が何日か続いていた。毎日仕事始めにその一杯が付くことが、今までとのマリアの生活で変化があったこととである。
「おまえ、また痩せたんじゃないのか?」
「そうですか?」
オーナーに毎日飲まされて、感想を聞かれるそのカクテルは、毎日少しずつ味が違っていた。違うと言うよりは、ウォッカの割合が減っているような気がマリアにはしていた。けれども、その多くなった方の味がマリアには何かわからなかった。
「オーナー。これって何のリキュールです?」
「ああ、これはオレが厳選した豆を漬けこ…マリア?」
得意げに種明かしをしようとするその声を、マリアは最後まで聞くことが出来なかった。
視界が急に暗くなり、マリアは意識を手放した。
「栄養失調完治おめでとう。マリア」
そんなオーナーの冷やかしの声をマリアが聞いたのは、一週間ほど後のこと。
アルコールしか口にしなかったための栄養失調。それが倒れたマリアに付けられた病名だった。
胃がだいぶ痛んでいたため、きちんとした食事も取れずにしばらく静養させられたのだ。
「まぁ、しばらくはこれで我慢するんだな」
そういわれて差し出されたのは、苦手なはずの珈琲。けれども以前あれほど感じていた嫌悪感は全くなかった。
両手で受け取って、口に含む。オーナーに飲まされていた味と一致する。
「もしかして、珈琲に慣れさせるためにあれを作りましたか?」
マリアが上目遣いに睨んでも、当の相手は一向に悪びれた様子もなく、むしろアル中になったら銃も握れなくなるぞと脅しをかけてくる。そのまま言い出せなくなって、何とか切り返せないかと、カップの中をのぞき込んでみる。確かに飲めるようにはなったと思う。けれども…
「オーナーの入れてくれたものしか飲めないと思いますよ…多分」
それだけ言い返すのが精一杯だった。
- Hut Buttered Rum -
「随分おしゃべりが過ぎてしまいましたね」
小さく鳴ったやかんの音で、我に帰ってマリアが苦笑する。大神も時間を確かめようとポケットから時計を取り出した途端に、ホールに備え付けの大時計が時を告げた。
「本当だ。今日のところは閉店だね」
そんなことを言いながらも、大神の方が名残惜しいような顔をしていた。今度いつこのようなマリアが見られるか。先ほどまでは少しでいいからみたいと思っていたのに、手に入れるともっと見続けたくなる。目の前にいる彼女はそんなことを考えてはくれないのかと、妙に寂しい気持ちになった。
マリアはそんな大神の様子を察していないのか、返事もせずに手を動かしていた。すぐに彼女の手の中で湯気の立つ飲み物が作られて、大神の前に差し出される。
「これにも、何かお話はつかないのかい?」
思わずそんなことをマリアに向けて話してしまった。急に言われたことにびっくりしたのか、一瞬だけきょとんとした表情をしたが、すぐに今まで大神も見たことのない、だけど大神にしか向けられないであろう笑顔になる。
「ええ。ありますよ。でもそれは次の機会にしましょう。お休みなさい、大神さん」
その返事に満足して、大神はグラスを受け取る前にその腕をとって引き寄せた。
・Black Russian
ウォッカ…40ml
カルーア…20ml
氷を入れたロックグラスに注ぎ、軽くステア。
1950's ギュスターヴ・トップ作
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