ニヒリスト
虚無主義を主張するもの。
現存する全ての諸悪に反応し、一切の現状秩序を転覆する方策にしか目が向かないもの者達を指す。
どんな信仰も希望も一切否定するものである。
これに関わる者達は、学業を全うできなかったもの等落伍者が大半を占め、銃をとり爆薬を仕掛ける等テロリズムに走り、平穏な生活を送っている市民達に害をなす存在となしている。
-シベリア流刑地のニヒリスト達-
J・ラスキンス
書いてあることの無責任さに、憤りさえ感じた。
それが今の自分たちの評価だと思うと、恐怖を感じる。
私たちは ニヒリストではない。
そう叫びたかった。
確かに 私たちは銃を取っている。
だけど信じて欲しい 私たちは力での制圧が目的でないことを
権力が欲しくて 闘ったのではないことを
皇帝が憎かったのではない
流刑の暮らしを恨んでいるわけではない
ただ 役人達の思いつきで命をもてあそばれる
その恐怖を克服したかった。
「マリア?…困ったものだな」
急に黙りこくった私に気が付いて、苦笑しながら、傍らにいた隊長が読んでいた本から目をそらして言う。
震えている私の肩をつかんで、本から視線をそらせるように包み込んでくれる。その暖かさにほっとした。
「あれほど、そっちの本は読むなと言っただろう?」
私が手に取っていたのは、海外の思想書。正確に言うと、海外の思想家が書いたロシアの革命軍についての考察だった。
30年前にシベリアについての本が出ていたが、それ以外の本は読まないように隊長から厳命されていたのだ。
「こういう物は、子供の読むもんじゃない」
それが主な理由。
革命軍に身を置いてから、もうどのくらいが過ぎただろうか?
このところ、大きな戦闘はない。冬も一番厳しいときだから、それは当然と言えば当然。
出来ることと言ったら、街頭での演説等比較的おとなしい活動に限られている。
官兵の目もあるので、それもそれほど回数があるわけではなく、良い機会だから勉強をするようにと隊長から直々に言われてしまっては、隊の活動をするわけにも行かず、仕方なく図書室と言われている部屋にこもっているのだった。
ロシアの革命家は先ほどの書物からも解るとおり、外部からは非常に低く見られているが、実際の処はかなり知的水準が高い。
最近は急激に組織が拡大してきたので、大分レベルが下がってはいるが、ロシア全体を考えると格段の差がある。
流刑地にいるときは、生きることに精一杯で学校など通える身分ではなく、その後もそんな機会はなかった。
この活動に身を投じて、やっとその機会が出来た。周りの大人達が私の教養がないのを知って、よってたかって自分の持っている知識を教えてくれたのだ。
英語、ドイツ語、フランス語。地理に経済に政治、数学的なことや化学、天文。あげくはあまり知らなくても良さそうな処世術まで教えてくれる。
文学はかなり国内での流通が規制されているために、学ぶことは出来なかったけれど、言葉などは本を読むことが出来るくらいに上達していた。
「思春期にいるようなお前には、刺激が強すぎる」
引き寄せた髪を左手で梳きながら、右手で私の持っていた本を奪い、本棚へ片づける。こう言うときだけ、私を子供扱いする。
「外野の意見は、得てしてそう言うものだ」
「だって隊長!」
隊長の役に立ちたかったからと私は言いかけたのだが、抱きしめる力が強くて、声にならない。
「漏れ伝わる情報をおもしろおかしくしか伝えない…と言うか、そうしないと世間の注意を引けないといった方がわかりやすいか?」
自分のことを悪くいわれているのに、当人は他人事のように片づけてしまう。先ほどから、私が平然と出来ないのとは正反対に。
隊長は革命軍の中でも、平和的にこの国を変えるという理想を追い求めるタイプだった。
前の革命運動の盛り上がったときの思想、ツァーリの元での民主政治。それを求めていた。
私が彼のグループに入った頃は、話し合いでこの国を変えようとする人たちばかりであったが、革命運動が盛り上がると共に、政府の弾圧も厳しくなり、小さかった組織は、生き残るために他の組織との合流の道を選んだ。
大きくなることで、政府の弾圧に対抗しようとするそのもくろみは成功した。
全国的に、そしてより組織的になることで、一番の目的…民衆に自分たちの事を伝えることは成功し、各地で革命の火種は作られつつあった。
しかし、その代償は大きかった。
そもそも今の政治を変えると言うだけの共通点で、集まった集団の意思を統一することは至難の業で、いつの間にか権力闘争が内部で起こり始めている。
気が付くと、目標がヒステリックな方向へ…ツァーリ打倒の流れに変わってしまっていて、隊長の声は次第に傍流へ押しやられてしまった。
最近はその理想主義に民衆が共鳴する事を恐れてか、組織の中で権力を持った人たちは、武力行使を最後まで反対していた隊長に、ゲリラ軍の隊長という役割を押しつけていた。
私と言えば、思想の違いなど対して興味がなかったし、父の最後の願いに近かった隊長の側にいたに過ぎない。
元々、隊長の組織に入ったのだって、生き残る手段でしかなかった訳だし、以前拾って貰ったとはいえ、その時は官兵につかまりそうになった隊長を助けたから、貸し借りはないはずだった。
その筈なのに、主流のメンバーから身を寄せないかという申し出を何故か断っている。
自分でも何故かは解っていなかった。その方が少なくとも、戦場で命を落とすことはなくなるのに。
周りからどんどん人がいなくなっている。それは事実。
シベリアに送られ、途中で発狂し、病に倒れた同胞がたくさんいる。
繰り返される戦闘で、大切な人の名前を呼びながら、こときれた仲間を看取ったのも数知れない。
初めの内は、思い出すと眠れない日々があったが、今はそれで心を動かされることもないし、人に銃を向けることに迷いなど無くなってきている。
引き金を引けば、人が倒れる。ただそれだけのこと。
敵が倒れれば倒れるほど、他の人が誉めてくれる。
火喰鳥の名前がいつしか付き、敵が恐れ、味方が頼りにしてくれるのが嬉しかった。
その名前が、どういう意味でも良かった。
隊長の声を、いつかあの暖かい部屋にいて、理想だけ唱え続ける人たちより大きいものにしたかった。
その為には、戦に勝ち続けないといけない。彼が英雄と呼ばれて、彼の言葉をみんなが聞くようになるように。
そう思って、闘ってきているというのに、隊長だけは私が戦果を挙げると悲しそうな顔をする。
仲間の訃報に慣れきってしまった私を、辛そうな目で見ている。
「マリア…隊から抜けないか?」
抱きしめられたまま、その言葉を聞いて、思わず身を固くする。
いつもだったら、いくら言っても私の本来の読み方ではなく、ロシア読みで名前を呼ぶはずなのに…こういう呼び方をするときは、本心から話す彼の一つの癖。
「…どう言うことですか?隊長」
自分はもう必要がないのかと思う考えを、何とか頭の隅に追いやると努めて冷静に声にする。
「私はもう必要ないのですか?」
「今だったら、まだ間に合う。広報でもなんでもいい!戦場から離れろ、マリア!」
先ほどまでの隊長の穏やかな様子は消え、悲痛な感じすら受ける。
その言葉に、冷静でいようと思う気持ちが崩れかかった。
どう言うことだろうか?自分の働きが足りないのだろうか?
「…私じゃ役に立たないということですか?子供は相応しくないということですか?」
「少なくとも、罪は背負わなくて済む。お前がまだ[人]でいられる内に…」
最後の隊長の言葉は聞き取れなかった。私の知らない言葉。
「隊長?」
「いくら正義だ正義だと言っていても、手にかけられたものの側から見たら、そんなものは正義じゃない…悪そのものだ」
いつの間にか、私を離して顔をのぞき込んでいる。
「だからといって、このままの状態を見逃すことも許されるはずもない…なぁマリア、お前に解るか?どちらが正しいのか」
私は静かに頭を振った。
その時肩口に触れた手から、隊長の感情が流れ込んでくるのが解った。
私が人を殺したときの悲しそうな感情。
この人は、闘うことを悩んでいる。漠然とだが、そう感じた。
「俺はいまだに判断が付かない。殺す方も殺される方も悪になる、そんなことがあって良いのか?」
この人は、ここにあってもまだ理想を追い続けているのだ。
絶対にツァーリは弾圧を辞めないだろうし、上層部は武力衝突を避けることはしないだろう。
その中でまだこの人は、奇跡を信じているのだ。どこかに話し合いでこの闘いが避けられる奇跡を。
これが、外国の人がニヒリストと呼ぶ人の正体なのだ。自分の楽しみで破壊をしているわけではないのに、結果だけでそう呼ばれる。
隊長を見ていると、さっきとは別の悲しさがこみ上げてみた。
神様を信じることが出来なくなった人が、奇跡を信じている。
神様を信じたくても、その神様は倒すべきものの守護をしている。
この国にある神様は、ツァーリの守護者なのだから、それを倒そうとするものは、どんなものであろうとも、悪になる。
それを理由に救われないとしたら…
「ユーリー…」
いつもの役職ではなくて、私は隊長の名前を呼んでいた。上官ではなくて、一人の人間として側にいたかった。
私は神様を知らない。あの人は神様を知っていた。
私はそんな大きな問題は答えられるほど、知恵はなかったし、あの人はそんな大きな問題を決断できるほど、傲慢ではなかった。
「奇跡って、神様しか起こせないんですか?神様を知らない人は起こせないんですか?」
「そんなことはないと思うが…」
突然の私の問いに、びっくりした様な顔で彼が答える。
「だったら、信じていましょうよ。そうすれば、いつかかなうかも知れない」
「…それが神を否定するものであっても?」
その隊長の問には、私は答えなかった。それは私にも解らなかった。
でも私がここにいることも、ある意味では奇跡に近いような気がする。
本来なら、シベリアのどこかで死んでいるはずなのだから。
「この仕事が終わったら、アメリカに行かないか?」
「え?」
「全てを初めからやり直そう。この地から離れて…そうだな。今まで居なくなってしまった奴等のことでも書いてみようか」
急に隊長が話題を切り替えた。
無理をして明るい声を出しているのからも、読みとれる。
「でも…終わったら、新しい国を作るんじゃないんですか」
「そう言うことは、政治屋に任せておくさ。これが終わったら、引退するよ」
逃げても逃げられる問題ではないことは、隊長自身が一番よくわかっている。
ならば、夢でも明るい未来を見ようではないか。
そうすれば私も、この先の見えない状況が少しは楽になるかも知れない。
「ユーリー…神様を信じられない間、貴方を信じて良いですか?」
「…」
「私は弱いですから、形があるものを信じていたいんです」
「…それなら、俺の分まで祈っててくれ。奇跡が起きるようにな」
いつから、願いが叶う事を奇跡と呼ぶようになったのかは、私はわからない。
だけど、神様に逆らっている私たちがこの願いを叶えるためには、奇跡を起こさなければならない。
信じる強さで、神様に逆らう願いでも叶えられるなら…
信じていよう。願いが叶うよう、奇跡が起こるよう。
貴方と交わした約束が守れるように。
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