「マリーヤ!マリーヤ!聞こえてないのか?」
「…」
男の気配にマリアは一度は読んでいた本から視線を外し、窓際の席から立とうとしたが、呼びかけを聞いた途端に外した視線をまた本に戻す。
実は彼が部屋に入る前から、久しぶりに会える彼になんと声をかけようかと思っていたのだが、第一声を聞いて無視することを決めたのだ。
「マリーヤ!」
そんな様子を全く気にしない様子で、マリアの側に立って彼女の頭を撫でる。
「…マリアだと、いくらいったら解るんですか?隊長」
視線を本から離しもせず、これ以上ないような不機嫌な声を出して、その不快な名前の違いを指摘する。
先ほどから響く声でマリアを呼んでいるのは、ユーリー・ミハイル・ニコラーエビッチ。俗に革命軍と呼ばれる組織の隊長をしているから、マリアは隊長と呼んでいる。
マリアがユーリーに拾われてからもう大分たつ。
その時は、彼は変革を求める小さな団体のリーダーで、マリアは流刑地から解放されて行くあてのない子供だった。
その時にはずいぶん世の中の悪いところばかり見ていたせいか、他の大人達とどうにかして対等になろうと背伸びをして、彼のことも名前で呼んでいたが、他の組織と合流し大きくなっていく中でも、彼を慕う人が増えていった。
そんな彼に付き従ってる内に尊敬の念が強くなり、革命軍のリーダー的な存在になったときに、呼び名を名前から隊長に変えたのだった。
その間にも自分たちのユーリーではなくて、革命軍リーダーとして対するように敬語も使うようになり、いつしか彼に対して一線をひくようになっても、彼の方はまるで意に介さないように、初めてあったときと全く代わらずにマリアに接している。
それがマリアにとっては誇らしくもあるが、リーダーという職務の上に余計な負担をかけているような、そんな申し訳なさも感じていた。
「随分不機嫌だな…何でそんなにこだわる?」
「大切な名前ですから」
不満と不思議を混ぜたような表情をしながら、ユーリーが手に持ってきた銃を壁に立てかけ、私が座っている椅子の脇の床に座り込む。
彼がそんな複雑な表情をする理由も、マリアには解っていた。
その理由を、彼がうまく言葉に出来ない訳も。
一言で言い表すならば、彼は典型的なロシア人で、思想の奥に大ロシア主義という意識があるのだ。だから名前にもロシア風以外の発音が入るのをいやがっているのだ。
それを当然だと思っているから、マリアの名前をロシア読みをして、それをマリアがいやがる理由も解らない。
私生児という立場にあったマリアは、ロシア正教の中でも母の信仰していた旧教の中でも、生まれながらの[罪人]であったから、洗礼を受けることが出来なかった。
勿論事実は互いに持っていた宗教の違いから、制度的に結ばれなかっただけなのだが、そのような事情が彼らの属する教会に通じるわけがなかった。
どんなに彼らが抗議を行っても、司祭達は決定を覆すこともなく、逆に彼らを責める言葉ばかりを返してきた。
この時代、教会の守護から見放されるということは、すなわち存在自体の死を意味していた。
信心深い彼女の両親は何日も悩み、お互いの思いを相談して、神の祝福を受けられないのなら、その分を自分たちの愛情で補おうという結論に達した。
そして教会が認めてくれなくても、天が彼女を覚えてくれるように、マリアと名付けた。
そう言う事情で、神様を信じる機会すら与えられなかったマリアだが、それだけの思いを付けられた名前は、両親が相次いで世を去った今では、唯一自分という存在を証明できるものとして、周りのものの冷たい視線にも関わらず、うち解けさせようとする隊長の心配りも無視をするという態度で、改名を拒否し続けていたのだった。
「私にとって、一つだけ残っている救いですから」
もう一度違う表現で、彼の周りとうち明けるための好意を無にする。ありがたいほどの好意であったが、これだけは譲ることが出来なかった。
「わかったよ。謝る。許してくれ、マリア」
半分納得のいかない表情だが、マリアのかたくななまでの名前のロシア語読みの拒否を受け入れる。
マリアもその言葉を聞いて、今まで彼に向けていた不機嫌そうな表情を、やめた。今では彼にしか見せない年相応の表情に戻る。
「それじゃ…クワッサリーというのは?」
その言葉がユーリーの口から出たのは、すこし彼が迷いを見せてからだった。
「くわっさりー?」
突然に始まった話にマリアは驚いた。初めて聴く単語、何でその未知の言葉が出るのか、解らぬままにそのまま聞き返す。
「そうそう…ん?マリアは知らないのか?駄目だな、そう言うのを知らずに難しい奴ばっかりよんでるんだろう」
少し気むずかしそうな顔をしながら、彼は物音をさせずに立ち上がって、本棚の隅から古ぼけた本を取り出して、マリアにあるページを見せる。
炎に恐れることもなく、その照り返しの光を浴びて輝いている。マリアが見た本に描かれているその鳥はそんな印象があった。
「北欧じゃないけれど、同じ名前を持つものはその力に守護されると聞いたことがある」
「…守護??名前??」
彼の言葉の意味を理解できずに、一番引っかかった言葉を聞き返す。
今日の彼はどうも早口で、言葉が多い。いつもは考えてマリアにも解るように、ゆっくりと言葉を口にするのに、どうも変だと感じた。
「隊長、どうしたんですか?貴方らしくもない」
その言葉に、また彼は黙り込む。マリアの横にぼうっと立って、彼女の顔を思い詰めているような顔で見つめている。
「なぁマリア、お前本当に戦場に立ちたいのか?」
「はい」
マリアは即答で答える。
戦場に立ちたいというよりも、ユーリーの側にいて、役に立つ人間になりたいというものだったが、そのつもりで上層部に異動願いを出し続けていた。それはことごとく、説明も無しに無視され続けている。
つい直接の責任者に当たるユーリーにあたってしまう。
「何で、連れていってくれないんですか?」
「お前はなにも感じなかったのか?あの状態を」
一度だけ遭遇した戦闘は、小競り合いで終わるだろうと言った彼の予想とは正反対に悲惨な光景が広がっていた。
それはその年初めての戦闘で、今までよりも数段改良された砲により、こちらは壊滅的な打撃を受けた。
横に伏せていた彼の脇で、弾に当たる不安もさして感じずに、マリアは機械的に引き金を引き続けていた。
敵は遠く、本来ならマリア達の持っている銃では届かないはずなのに、照準を定めることもなく、引き金をひく小さな音を響かせるのと同時に敵が倒れていく。
恐怖は思っていたより感じなかった。逆に倒れていく人たちが、どこか現実的ではない様な気がした。
本来なら自分もそうなるかも知れない恐怖も、ただ身近にある死の形の一つにしかとれない。
ただ、それすらも自分の罪という風に受け取った。
ならばその罪が一つ二つ重なろうとも、何の支障があろうか。
自分の大切な人が罪を背負わないように、自分の手を汚せばいいのではないか。それこそ自分の存在理由ではないかと、思いつつあった。
「本当に人の命を奪ってまで、やりたいということがあるのか」
「…ええ。奪う権利はありませんが、見てみたい未来がありますから」
段々にきつくなるユーリーの視線から、目をそらさずに答える。試されている。そう感じたから。
結局、先に視線を外したのは彼の方で、そのまま自分の腰のベルトを外し、それをマリアに差し出した。
「これは?」
「エンフィールド。おめでとうなんていいたくはないが…申請が認められた。とりあえずは俺のお下がりだが、身を守るためにでも使うといい」
ぶっきらぼうなその声にとまどいを感じながら、マリアはおそるおそるその銃を受け取る。以前持った銃より遙かに軽いはずなのに、手の中のエンフィールドは重みを感じる。
「もしかして、先ほどのクワッサリーって、偽名ですか?」
「ああ、そうだ」
多少緊張した声のマリアの問いに、ユーリーは手短に答える。炎すら手なずけてしまう火喰鳥に彼女の守護を願ったのは本当だったが、それ以外に一度だけ見た炎の赤と競うように彼女を包み込んでいた幻想的な青白い炎。それに重ねている部分もあった。
そのことを知らないマリアは、泣きそうな顔で笑みを浮かべていた。
「嬉しいです。何だか生まれ変わったような…そんな気がします」
掌で溢れた涙を拭いながら、何とか思っていることを言葉にしようとする。大切な両親を亡くして以来、自分のことを認めてくれる存在がここにあったことを改めて解ったような気がした。
そんな彼女の言葉に何かを思いだした様に、今度はユーリーの方が大声を出す。
「忘れてた!そんなことはどうでもいい!お前の生まれ変わったって言う台詞で思い出した!」
マリアの静止の声も聞かずに、ユーリーは彼女の腕を引っ張って表に連れ出した。しばらく外に出ていなかった彼女にとっては、天気の良い外は少し辛い感じだったが、そんなことを気にする様子もなく、少し開けた平地の方まで連れていく。そして、足下にあった一輪の花を摘み、彼女に手渡す。
「な、何です?私は、花なんかに興味は…」
予想外のことに、慌てるマリアの手にその花を強引に握らせて、彼女の視線に合わせるように、腰をかがめる。
「なんで、今日お前の申請が認められたと思ってるんだ?」
「え?」
マリアは手早く記憶を辿ってみた…思い当たるところはない。
「お前…本当に忘れてるのか?6月6日。誕生日だろうが!」
「誕生日?」
「だから、急いで帰ってきたんだ」
確かにその日はマリアにとってそう言った日だった様な気がする。生まれた日を祝う日。彼女両親が亡くなってからは、そんな行事があったことすら忘れていた。
「だからな…お前にとって何が良いかなと思ったんだけど…昔日系の奴に聞いたことがあるんだ。この花の名前をな」
「なんていう名前ですか?」
「学名はCornus suecica。日本名がな、エゾゴゼンタチバナ」
「タチバナ?」
「お前の名前と同じ…よかったな、これで忘れないで済むだろう?」
自分の言葉に目を白黒させるマリアの頭を撫でながら、ユーリーは満足そうに頷いた。
自分の名前を誇りに思う反面、自分には解らない名前の意味を探していたことを知っていたので、その花のことを思い出したとき、まずマリアに見せてやろうと思っていたのだ。
どんなことがあっても、彼女が彼女自身を失わないように。
「誕生日おめでとう。来年もこう言えるようにしような」
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