大きく息をつく。篭もっていた空気をすべて吐き出す。昨日までとは違う何かで胸詰まるけれど、愛しい温み帯びるそれをただ抱き締めるよ。
自意識過剰だと知っているから、舞い上がっているだけなのではないかと怖くなるのだろうね。どれほどの存在なのだろうかと、不安で堪らなくなるのだろうね。どれだけ与えられても変われずに重ねる裏切り。後ろめたさと痛みがその代償だなんて、それは何も生み出しはしないのに。
何度泣いて喚いて沈み込んでも、また信じていいですか? 信じさせてくれますか? この先その繰り返しだけど、そんな形でしか中にいられないけれど、それでも苦く笑っていてほしいと、願っていてもいいですか?
抱き上げられた、その腕から感じる確信。今すぐを叶えるだけには、ボクの背丈は足りないけれど。
久し振りにゲーム三昧。ようやくサクラ3のグランドフィナーレを見て、GB2で再びマリアに憧れる少年アキラくんになり、オンラインでは麻雀に苦戦し。ネット接続する予定はないので、ミニゲーム集としかならないのが少し悲しい。
龍星座の掲示板を読みましたが、無粋だなあと。公的な場で制作側にそんな態度を取られたら、折れる他ないではないですか。プロだと自ら言うのなら批判を受ける覚悟はあって当然だし、馴れ合いに甘んじているべきではないと考えますが。氏に悪いイメージは持っていなかっただけに残念です。
タイトル下の台詞、widthを指定していなかったためWinIE5とMozillaで位置がずれていました。今後は面倒がらずに確認すること。しかしマイパソちゃんはいつまでIE4なのか。
同じタイトルをつけないために、ということもあって見出し一覧を作成。一般的な資料価値の低いうちの日記ではなあとは思うし、1999年分は日付けが連なっているだけではあるのですが、せっかくそれぞれにIDを振ってあるので。それにしても、並べてみると毛色が如実だ。
愛とは永遠であり、無償であり、決して傷つかず傷つけないものであると、そう認識しています。それを歪めてまで口にしたいとは思わない。私には手の届かない理想ならば、それも然るべきことなのでしょう。
「隊長と一緒にいる時が……私は、一番幸せなのですから……
」
サクラ2第十二話で聴くことのできるこの言葉が、マリアの台詞で最も大切にしたいものかもしれません。それは2年前に大神が告げた約束へ、マリアに赦しと癒しを与えた言葉へ、彼女が返してくれた答えでした。
生きて、生き続けて、君を護る。そう誓った大神にとって、彼女の幸福は何よりの願いでした。それがここにあるのだと、他の誰でもない自分と共にあるのだと、彼女は伝えてくれた。そしてこれからも、その喜びを分かち合ってゆける。そう限りなく満たされた一言だったのです。
サクラに出会ってからしばらくの間、プレイヤーである自分の分身として大神を捉えていた時期がありました。モニターの中の少女たちが彼に示す言動に反応し、彼という存在を挟まないまま、露骨に嫌悪を覚えたこともありました。
ですが2以降、特にSSを書くようになってからは、大神を客観的に見るようになった。私自身とは異なる、しかし大きく影響した大神という人格が確立していった。それは3の解釈にも出ているように、自分とは別の価値観を持つ彼を肯定してゆくことでもありました。
ゲームをプレイする際には「うちの隊長はこう考えるだろう、こう言うだろう」というように、彼の思考を投影しながら進めてゆきます。自己解釈による大神人格シミュレーションといった意味が強い。少なくとも本編においては、彼なしでは成り立たない。この先も彼を自分自身とすることは、恐らくないでしょう。
今後の展開についてはPS雑誌の記事も読みましたが、大神編以外のサクラには関わらないことになるかと。正直言って広井氏にはついてゆけないものも感じていますし、ゲーム本編ですら消化し切れていない状態ですから。以前書いたことを翻すようですが、サクラ大戦という冠だけで情熱や時間や金銭をかけて追いかける気には、今はなれないのです。
サクラから離れはしません。ただ大神が主人公でない以上、たとえ現在の花組キャラクターが登場するとしても、それは私が触れたいサクラの世界とは異なるものではないかと。完結後は彼の視点に立ったまま、今まで受けてきたものをより深く理解し、大切にしてゆければと考えています。
いつの間にここまで大神ありきになってしまったのか。それはやはりサクラ3が大きかったのではないかと。3での彼は2以降私の中で育ってきた大神像と同調する、いや、同調させることができる存在であったから。そして、それは強烈な感動であったから。
大神一郎を軸とする私にとってのサクラ大戦は、彼が舞台を降りることで終幕となるのでしょう。残るのは変わらぬ時を刻む、閉じた物語の世界。彼を通して追われることなくそれを慈しむのも、悪くはないと思うのです。
色々と言ってみたところで保守的であること、ポーズが含まれていることは否定できないけれど。自分の中で収拾がつかなくなることが嫌だから、区切りをつける好機としたいのかもね。でもサクラだからこそ、いい加減な形で終わりにしたくないというのも事実。
ただ、自分が関わらないからという理由だけではなく、従来のキャラクターは出してほしくないとは思っている。大神がいないのなら尚のこと。もう少女たちを戦場に立たせないであげてほしい。戦うことで居場所を、存在の意味を得ていた彼女たちでは、もうないのだから。
そういう意味でも4には期待しているわけです。完結と銘打つのなら、生命を賭して駆けた少女たちに、その身をその心を護った青年に相応しい最後を。「あなたがいるから戦える
」その言葉が、ほろ苦い懐かしさとなるように。
時間が解決してくれるなんて、そんな日は来なければいい。
外してあった翡翠館のSummerスタイルを復活。移転時に手直しが終わっていなかったので。やらなければならないことが進まない時に限って、こういう作業を始めてしまうのはどうしたものか。
終わりを見ているのは、それが不変という安堵へ繋がるから。それは掌に留まるものなのか、それとも零れ落ちてしまったものなのか。君に脅かされることのない世界を、ただ穏やかに見ていたいのだよ。
昨日、今日と駅前のアクトで行われた、ユニバーサルデザイン全国大会に参加してきました。それにしても県や市がUDを掲げていたなんて、今まで知らなかったのですが。福祉やバリアフリーという面から活動してきた他の団体の話を聴いていると、どうにも静岡は口だけ形だけという感が否めなかったです。
「誰もが」と考えた時に、まず「自分」が来てもいいのだと思う。「誰かのために」ではなく、「自分のために」から始まってもいいのだと思う。その意識を少しだけ広げれば、隣の人と重なり合えるはずだから。
憎まれて喜ぶ人はいない。少なくとも私は、何も変わらずに付き合うことなどできはしない。その感情を持つ側であっても、持たれる側であっても。
距離を置かれる可能性に脅えていた。他でもないあの人にそんな思いを抱いてしまった自分に震えていた。だがその事実は、意外なほど早くこの身へと染み込んだ。諦めたように抵抗もなく、静かな風に乾いた涙と共に。それが尚のこと悲しかった。
それから後、幾度もその戦慄に、自分のものとしたはずのそれに支配される夜を過ごした。一度認めてしまうと後戻りができない。身勝手だと片付けてきた我が儘は抑えを失い、すべての責任をあの人に求めた。苛立たしさに駆られた心は後ろめたさに刺され、行き場を失い、留めておくには耐えられなかった。
今でも吹っ切れたわけではない。自分を律せられなくなることが、自分という存在に押し潰されることが恐ろしいのだ。恐怖は常に自らの内にあり、私がしてきたのはそれを知ることだった。
もう長いこと、あの人を通すことでしか自分を見られなくなっていました。あまりに多くを預けてしまったから、あの人を失えば自分の存在意義さえなくしてしまう。それゆえに些細なことで脅え、不安は膨れ、それを埋めるためにますます寄りかかってゆきました。
その状況が望ましくないものであること、自分に多分の問題があることは理解しているのです。それでも抜け出したくない、溺れていたい。その思いは自分の弱さと狡さ、そして、あの人は私のすべてであってほしいという願いが生み出したものなのです。
矛盾しています。あの人を通して、あの人に依存している自分を見るのは、維持したいその環境がそうすべきでないものであると知ることです。そしてそれを認め、表すのは、ようやく得られたその意義を喪失へと導くことです。為したいと思えた行為を重ねれば重ねるだけ、後ろめたさは重みを増し伸しかかり、やがては耐え切れない日が来るのです。
甘えていたいだけなのだ。今こうしてキーを打つ、その指先すら矛盾に満ちている。糧とできるはずとわかっていながら、その条件を拒んでいる。
一時的なものならいい。鬱になっているだけならいい。だが、ひどく無気力だ。動きたくない。明日を見ることさえ億劫でならない。疲れてしまった。この距離にも、この螺旋にも、こんな自分にも。