君にとって帝劇は大切な場所だけど、依存する場所ではない。神崎の名にも寄りかからず、自分の脚で立っている。スポットライト浴びずとも、自ら輝いてみせる。そんな君をとても眩しく思っていたから。とても愛しく想っているから。だから、大丈夫だと思うんだ。穏やかに見届けられると思うんだ。
そんなわけですみれくんの話を書いています。しかしSSと言っていいのか疑問。自己解釈入れたノベライズってだけな気が。
それでも私は幸せだと、囁いたら信じてくれる?
その重み肩に感じながら、駅になんか着かなければいいと思っていた。そっと顔寄せながら、このまま時が止まってしまえばいいと思っていた。閉じた瞼の裏に映しているどこか遠くへ、あなたが行ってしまわないように。
今伝えなければ、あなたはいなくなってしまう。そんな恐怖に駆られて、何も話せない自分を悔やんでばかりきたけれど。失いたくなくて、躍起になる自分を責めてばかりきたけれど。でも、焦らなくていい、ひとつずつ伝えていけばいい。そう思えたよ、ありがとう。
幸福に満たされるのは、なんて温かいんだろうね。その時間のために、あなたと共にある安らぎのために生きてもいい。そう思えたよ、ありがとう。
スクーリングのため京都へ行っていました。今回は文楽の講義と、大阪の国立文楽劇場での鑑賞。技芸員の方のお話を直接聴けたり、目の前で人形の動きを見られたりと、貴重な1週間でした。
まったく予備知識がなく、実際に鑑賞した時点でも、今一つ魅力を理解できなかったというのが本当のところ。席が後方で、細かな動きが見えなかったというのもあるかもしれませんが。歌舞伎のほうが格好いいなあなんて思っていましたが、「生身の人間では生々しく思われる感情の描写も、人形でさらりと見せる
」との解説を受けて、捉え方をがらりと変えることができました。
講義では女性の脚に首を当てる場面が挙げられていましたが、鑑賞中、息子を殺され悲しみと憎しみに支配される女性の姿を美しいと感じたのも、そういった感情の機微が抽出されているからなのかなと。人形ならではなのかと。
そんなわけでレポートはその方向で書こうかと思案中。自分からは触れようとしなかった世界だろうし、教示によって少しだけですが良さも感じることができ、受講してよかったです。
背中に震えが走る。心が温みを帯びる。ずっと抱いてきたから。ずっと告げたかったから。これからも共にありたいと思える、その言葉を伝えられたこと、決して忘れない。手を離さずにいてくれたことも。眼を逸らさずにいてくれたことも。あなたでよかった。そう感じられるだけで、すべてが救われてしまうから。
ひとつ自信になった。ひとつ大切なものが増えた。これからも重ね続けてゆけるのだと、信じていていいのでしょう? 詰まった息、感情溢れて生まれ変わる。どうかその息吹も受け止めて。またひとつ、忘れられない日になるから。
失業しました。いや、本職は学生のはずだから違うか。百貨店の店員食堂でアルバイトしていたのですが、その百貨店が倒産してしまったという。前日まで何も変わらずに働いていたのに、昨日になって突然。民事再生法の適用も検討されたようですが、受け皿になる企業が見つからなかったとかで自己破産。店舗閉店、全従業員解雇。あまりに急な話でどうしたものかと。
私はテナントのバイトに過ぎないので、食堂の社長から手短に電話があってそれでおしまい。今日から収入源なし。いやはや、本当にこういうことってあるんだな。……さて、新しいバイト先探しますか。動揺していても歌謡ショウには行けないのだ。
私が咄嗟に悲鳴を上げるとしたら「うわあっ!」や「ぎゃあっ!」くらいだろう。せいぜい「いやあっ!」、下手すると「どわああっっ!!」なんて色気のない声を出しかねない。女性の悲鳴といえば「キャー!」が浮かぶけど、そんなものは一生叫べそうにもない。
理由はさっぱりなのですが、昨日からダイナマンの主題歌が脳内リフレインしていて困っています。誰か止めてください。それにしても、どうして覚えているんだろう?
私にとってWebは手段であり、道具、そして場所なのだと思う。私は環境依存しないサイトを構築しなければならないし、Web全体がアクセシブルになってもらわなければ困る。近づいてくれた人、伝えたい人に、そんなつまらない理由で壁を作ってなるものか。自分が何らかの障害を持った時に、満足に利用できないなんてごめんだ。
見ているものも、目指しているものも違う。芸術性はいらない。これは礎なのだから。
新しいサーバが決まったので、移転の準備を進めています。ドメイン持ち込み可、SSI使えて年額1万円。安い業者を探していたのですが、条件を考えたらこんなところかと。サイト構造の変更点もいくつかあるので、がりがりと文書を弄っています。
だから方向性が違うのだと。情報伝達が目的である私には、個性よりも優先させなければならないものが存在する。そういった土台を作った上でこその表現だと考える。
なぜ別の形で出会えなかったのかと思う時はある。それが、得難い「今」を否定するものだとわかっていても。
周囲からどう見られようと、そんなことは構わない。第三者に迷惑などかけてはいないのだし、私は私であることに何ら恥じることはない。ただ、その違いが相手の拘りとなるのなら辛い。余計な負担をかけているのなら、辛い。
サクラリンクの紹介文を若干修正。追加する時も変更する時も、かなり手間取ってしまいます。そのサイトから感じたものを、どうすればより的確に表せるだろうかと試行錯誤。その良さを他の人にも知ってほしくて勧めているのだから、「巧い」「綺麗」だけで済む話ではないもの。
私が感想を書くのが遅いのも、同じような理由なのかもしれません。作品を読み込んで、感じたものを形にして、文章としての体裁を整えて……。もう長いことそこまでする気力や、精神的な余裕を失っているように思います。不義理者で申し訳ないです。
泣き止めば清々するなんて嘘だ。詰まる喉の痛みも腫れた瞼の重みも、好きになれるわけがない。浅い眠りが途切れるたびに襲われる、胸焼けと胃酸の味に慣れてしまえるはずがない。
こんな夜をもう何度繰り返したか。睡眠薬代わりのアルコールも効きやしない。苦い涙は何も癒さない。心を抉る毒となるだけ。頭抱えた腕の間で見開いた瞳は、果てない闇と繋がっている。
信じているのはそれを願うから、そうしなければ保てないから、私にはそれしかできないから。でも、それは本当に「信じる」ということなのでしょうか。都合のよいことを望んでいるだけなのではないでしょうか。