今月の16日から21日、名古屋にて行われるグループ展覧会に出品させてもらうことになっています。学内の集まりながらもコースはばらばらのため、作品のジャンルも多岐に。今からわくわくしています。
私はノートPCを持ち込んでWebサイトの展示。スタイルはMozillaだけを相手に作っているので、今までやりたくてもやらなかったことが目一杯できて楽しい。さぁて、あと少しだ。
あなたの中には、あまりに大きなものが存在するということ。それが辛かったのです。しかしそれ以上に、そんな自分に耐えられなかったのです。
苦しむことも傷つくこともない、最良の方法は見えているのに。理想だけ高くてどうするのだろう。いや、何も特別なことではないのかもしれない。それでも、私には遠すぎる。
自分のことでしか泣けない。誰かのためになんて泣けやしない。
ただでさえ融通の利かない性分なのに、また縛りを増やしてしまった。だが、そうやって追い詰めてでも覚悟を決めてゆかなければ、一生同じことの繰り返しだろう。
何だってこんなにもダイレクトに身体に出るのか。根本的にどこかおかしいのではないか。胃痛と胸焼けにキリキリしていたものの、取り合えず回復した模様。枷を嵌めて落ち着くなんて、やはり私は被虐症だ。
自分の中を覗き込んでは、頭を抱えて蹲る。何をしているのだろう。何になるのだろう。自傷趣味の露出狂の自慰行為? それでも私は構わない。
指折り数える日々だから下らない我が儘も誤魔化せるなんて、その約束があるから今日この日をやり過ごせるなんて、笑ってよ笑ってよ笑っていてよ。
望むことすべてが間違っている気がする。あなたの所為だと叫んだところで、自分と向き合えばそんなものすぐに剥がれてしまうのに。転嫁なんてした自分を尚のこと責める羽目になるのに。それでも動けない、動けない、動きたくない。あなたの海で溺れていたい。
勝つだの負けるだのといったこと自体、何か違うのではないかと。言うならば、すべての人が勝たなければいけないのではないかと。そこを妥協してしまったら、いくら相手を捩じ伏せたところで、それは敗北だと思うのです。
だからどうするべきだとか、そんなことは何も言えないのだけど。ただ、そう思う。それだけ。この頃、妖精現実(アフガニスタン)をよく読んでいます。
何から書けばいいのか。何を書けばいいのか。見たもの、得たもの、切り捨てたもの、たくさんあるけれどそれはまた追々。私は何も変わらずに、何も変われずに、それでもここに存在している。
この掌には留めておけないものが多すぎる。砂粒は否も応もなく零れ落ちてゆくけれど、せめてその流れる様を、その跡を、記しておきたいと欲している。私は記録者になりたい。
生家の地元の秋祭りで、「浦安の舞」という神楽を奉納したことがあります。昭和15年の紀元2600年を祝して作られたというこれ、全国的に定着しているそうですが、地元では小学5、6年生の女子4人が担当し、夏から練習に駆り出されていました。
うちは何代も前からそこに住んでいた(今も祖母がいる)ので、神社から話が来たそうです。毎年、舞の様子を眼にしていたから憧れがなかったわけではないのだろうけど、とりわけ嬉しかった記憶がない。嫌がったそれもないけれど。先日、母親にその話をしたところ、私が舞った年はその担当を巡って、かなり揉めたということを初めて知りました。
どうにも泥臭い話で嫌なのですが、名誉というか箔がつくらしく、娘にやらせたがるものだったらしい。実際、祖母は喜んでいたそうだし。親だけやる気(やらせる気)満々だった家に話がいかなくて、納得いかんと切れた人がいたとかいなかったとか。当の子供たちは「引っ越してきた子じゃ駄目なんだってね」くらいしか知識はなく、まあそんなものかと思っていましたが。ピリピリとした話し合いが繰り返されていたとは露ほども。あーあ、大人って嫌だわ(苦笑)
扇と鈴持って、赤い袴穿いて……当時は意識していなかったけれど、巫女さんだったんですよね。サクラを知った後だったら嬉々としてやっていたんだろうな。銀座の地で神楽を舞っているという設定が好きなのでね。まあ、そんな余計なこと考えるようでは務まらないのかもしれませんが。あ、だから乙女に舞わせるのか。もっとも、当時の私が純粋だったかどうかは甚だ怪しいのですが(笑)
自分が今何を求められているのか、どんな言動を行うべきなのか。わからない、わかっていてもできない。明後日の方向にばかり気を遣っては空回り。焦燥感だけがじりじりと心を占める。眉間の皺が一層深くなる。今すぐここから消えてしまいたい。
重く伸しかかるのは居場所のなさ。無理に上げていた唇の端も限界。周りの顔色ばかり覗うのは苦痛。そんなことにばかり囚われる自分を自覚するのはもっと苦痛。嫌なんだ。神経擦り減らすのはもう嫌なんだ。
少女なんて身勝手なものだ。世の中に溢れている恋が擦れ違いばかりだと知っていても、自分のそれだけは特別だと思っている。遥か遠くの背中が振り向いてくれる日を夢見ている。
引き返したいわけなんてないのに、戻れないと嘆くのはどうしてなんだろうね。
共に過ごせる時間も、交わす言葉の数も、限りがあるのではないかと、そんな風に感じている。回数券みたいに使い切ってしまったら、突然消えてしまうのではないかって。少しずつ慣れてゆくことにどこかで恐怖を感じていたのは、そういうことだったのではないかって。
その姿待ちながら胸を高鳴らせていたあの瞬間で時を止めてしまえば、こんな思いをしなくて済んだ? 優しさを持てた時間だけを積み重ねることができたのなら、こんな自分に会わなくて済んだ? どこまで巻き戻せばいい? それとも始まらなければよかった?
変わりすぎてしまったなんて、その台詞も脅迫だけど。わかっている。わかっているのに。何度同じ言い訳を繰り返すのだろう。今日までも、明日からも。