日記
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2004年12月5日(日) どうも自分は
少々変わっているらしい。
多少自覚があるもので、どこら辺に違いがあるので珍しく興味が出たので聞いてみたら。
「全部」
…それは、少々とは言いませんが…^^;
そこから自分が目立つことを説教される<その日始めてあった方
もう少し普通の人を装いますかねぇ……(あまりにも目立つらしい)
2004年12月6日(月) だから自分の衝動に
身を任せるとろくなことにならないのだ。
いい加減学習しよう<自分
自分は自分の役にしたがって 律しなければならないのだろう。
2004年12月8日(水) 戦とは
武を持って 血を流す血を流さずにかかわらず押さえつけることだけではないはずだ。
ちょっとした 人とのいさかいも この言葉に含まれる。
ちょっとした 相手を見下す その心を持っている限り
手に持った 力を持って 上に立とうと そうする限り
戦など 我等の横に転がっているのだろう
さて 平和というのは 何かと思うと
一人の歌い手は 横にいる誰かとその瞬間 穏やかにすごすことだと そういったかと思う
戦はなくならない こんなことを言うのは嫌だが 戦うことでしかないことでしか
しかしその範囲は限りなく 小さくできる
何かを欲したときに それはその手段でしか得られないのか?
それを聞かないと また新たなる戦を引き起こすかもしれない。
2004年12月10日(金) そろそろ雪の季節ですね
寒空に
昔交わした約束を
果たせぬままに
我だけ残る
約束の
先にいるのか
共にいるのか
きちんと短歌は習っておくべきでしたね。
音だけあわせたとしても 言葉の先が届くのかどうか。
2004年12月11日(土) 披露するもの
情報を受け取りすぎる
最強の一発屋 4分間の情熱
アンカーによって その場の五感すら再度認識できる
……やっぱり「人」って面白いなぁ…
2004年12月12日(日) 僕が君を壊した報いを
今受けているのだとしたら 今僕は幸せなのだろう
お互い永遠が欲しくて 刹那な時間を 空白を求めて 今こうなったのだから
すべてが手遅れになった僕の姿は 君にどう映っているのだろうか?
結局お互いに互いの永遠になりたかったのだろうね。
僕は君に継がせる形で 君は僕の中に残す形で
だから 嘆いてくれるな
まわりのものも嘆いてくれるな 末を暗示しなくていい
偽りなど何もない ただ君が聞かなかったから 気がつかなかっただけだった
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こんなの自分の思い上がりで 自分の心が嘆いているだけかもしれない
「あなたの声が聞こえない」
そう叫ばれたあの日の声だけは いまだ明確に残っているのだけれど
いや…声だけじゃなかったな。
2004年12月13日(月) 滴ヶ淵
ひたひたと
濡らす水面を
うごかすものは
風の流れか
水の流れか
暗き先
流れる先に
眼を凝らし
我が手を離れた
華を見送る
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やっぱり血はつながってたのね。あはは。
変なところで確信する自分。
華守はお願いしますね。
2004年12月14日(火) 伝えたいことは
山ほどあるのに、いまいちなんと切り出したものかと、言語の足りない自分はいろいろ考えてみたり。
二、三年前からどうも記憶がうまく取り出せないことがあって、一時期パニックになった時期もあるんですが(迷惑かけた某氏には申し訳なく)、妙に鮮やかに覚えていることもあり、直前のことでも覚えてないこともあり、今じゃすっかり面白がる始末。
でも伝えたいことは、その人に伝え終わるまでは、記憶にあってほしいなぁと思うのです。どーか忘れませんように(その前にメモを取れ<自分)
2004年12月15日(水) 右手と頼る人
が、私にはおりますです。
右腕ではなくて。
今はもう結婚して、たまにしか連絡しないのですが、自分以上に中原というものを知ってる方です(苦笑)
それで、なぜ右腕ではなくて、右手なのかといいますと、文字通り右肩をおかしくしている間に利き手じゃないとできないことを代わりにやってもらってたりしました(苦笑)
おかげさまで誰かにお願いするということは覚えましたが…
当時はかばんを持った途端に、奪い取られるというなかなか変な光景(笑)
そういえば、物覚えが悪い自分の代わりに、人の名前とかも覚えてもらっていましたねぇ(遠い眼)
2004年12月16日(木) 涙腺ぼろぼろ
なんか日曜日から(正確に言うと土曜日からなのだが)、何か涙腺がおかしい。
悲しいことがあったわけでもなく、そういう目にあったわけでもなく。
目に付くもの聞くものに反応する反応する……
しまいには本の中の一言で。
なにも某集まりの十年史で泣くことはなかろうと思うのです(苦笑)
悲しいとはまた違うし、うれしいわけでも特にない。
感情的には強く動いたわけでもなく、ただ泣けてくることもあるのです。
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この間ちょいと書いたものは「短歌」ではありません。
音的に収まりが良かったので、そのリズムなだけで。
そういう形もまたありということで。
2004年12月17日(金) だーかーらですな
社会的に無難な言い方ならできるんですよ。
そのくらいの常識はありますがな。
だけどね。その言葉のどれも「私の言いたい言葉」じゃないんですよ。
で、途方にくれてた訳で。
電話の先でそういっても多分信じてくれないだろうなぁ…
貴方はどうせもっと言葉を知ってて、口の悪かった昔の方を知ってるからね…(ため息)
確かにあのころの比べて、貴方に慣らされたというのは、間違いないと思うよ。
だけどね、何でそのころに比べて、みんな人の頭をなでたがるかは私の方が聞きたいんだがね。ほんと。
2004年12月19日(日) 私は
人を喰らう鬼でございます。
人を喰らうことを目的とし 人を泊め
その人の記憶を引き出した上に その身体までも 喰らう鬼でありました。
その鬼があなたに救いを求めるのは 酷く滑稽なことではありますが いささか疲れてまいりました。
伝えられぬ思いを断ち切ることに
知らぬ間にその思いを心に留めていることに
おかしな話ではありますが 身は鬼と成り果てるのに 心はいまだあるようで
夜な夜な有りもしない自分の記憶と 聞いた記憶が混ざっていくのでございます
救われるのであれば 読経を
救われぬのなら 介錯を
求めて歩く鬼でございます。
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書いてはならないものを書いてしまって、あわててサクラの方を書き出す自分(笑)
河漢の言の次に書こうとした作品のラフ
ある能をモチーフというか…しかし…これでどうあやめ・マリアに行き着こうとしたのやら(苦笑)
2004年12月21日(火) いざ書いてみると
結構季節柄のせいか、書きたいことが他の方と重なってみたり…
(結構他の人の日記を読むのがすきなんですよね。活字多くて(苦笑))
も一つの日記もあるので、しばし思案。
ここ数年というか、なんと言うか。
自分自身惚れっぽい事にことを再確認して困っております。
色恋沙汰ではなくて、何とかその夢に助力したいと思うというか。
昔はあんまり人に興味がなかったんですが、あるときを境に仕事、プライベート、男女を問わずいい旦那方が多くなりまして。
その人達がもううれしそうに、酒を片手に自分の思い、夢などを語ってくれるわけですわ。仕事のこと、プライベートのこと……
平常心でいられると思います?
そんなこんなで火事場仕事に首を突っ込み、修羅場に巻き込まれ、日々楽しく胃を抑えながら生きてます。楽しいからよいんですが。
わっはは。できりゃこの心配性のところを持っていって欲しいところですな…
日々平凡に生きていると思っていたのだけれど、前に波乱万丈に生きてるねぇと言われたことを思い出しながら書いてます(苦笑)
何でこんなことを書いたかといいますと、だいぶ前にある方とした約束…果たせるまでまだあと10年以上もかかりそうなんですけど…ってことなんですけどね(苦笑)
2004年12月22日(水) やってしまった…
すいません、出来心なんです、気の迷いなんですーーーーー。
いえ、本当は欲しかったんで。
以前幾人かのかたにお話していた「露西亜時代のマリア」を書く上で、ご紹介していた本…二冊買ってしまいました…。
マリアを書き始めてからずーっと手元に欲しくて、図書館でほとんどコピーしていたんですが、本自体はなかなか手に入らない状態でした。それが昨日やっと見つけて注文、さらにもう一冊…(一足違いで買えなかったらという恐怖が…)
本との出会いは人の出会いとおんなじで、まさに一瞬。次の機会はありません。
いくら新しい本でもね。
その本は数年前にどこぞの大学の副読本になっていたはずだから、そのうち出てくるかもしれません。
書名が必要なものでありましたら,ご連絡を。ただし、革命の本ではまったくないので直接的にはあまり必要ないと思います。
明日の休みから連休をとって、身体のおかしいところを養生する予定。今月頭からの風邪で咳き込んだと思ったらなぜかあばらが痛む…少々の痛みなら、考えに没頭する自分を戻すという意味ではいいんですが、なかなか不便。
週末は某寺にて『誰そ彼』(http://www.higan.net/tasogare)に行く予定。お坊様の説法、読経そして音楽となかなか楽しめそうです。一応申込制なので気になる方は見てみるとよいかもしれません。出演者とかも書いてありますし。
2004年12月23日(木) 中原流言葉の捕まえ方(もしくは語り物の書留方)そのはじめ
どもども、中原です。
先日からどうも考え続けてることががありまして。
いやいや、そんな大層なことじゃありません。
しかし寝ても起きてもそのことだけで、仕事にもなりはしませんから、自分なりに書いてまとめようと思いましたら、、以前ある方より「文章の書き方教えろー」という非常に中原に聞くことか的な質問がありましたので、関連付けて書き留めてみようかと。
まずは疑問。
掲示板にて抜刀質店様より(無断でお出ししてすみませぬ…)以下のお話と問を出されました。
(さらに原文そのままです 問題ありましたら、教えてくださいませ。速攻で削除します)
>しかしまれに、「自生探求」に主軸を置いてしまう者がいるらしいのです。
>「自分自身」というものを消去してまでも。
>あるいは「ウクライナ」の流れに胃の溶けるような苦しみを(ホント)負ってまでも。
>自分自身の人生とはなんの関係もなくても、わたしは「考える」ことだけは
>止めることが出来ません。
>・・・・たぶん、あなたも、そうなのではありませんか・?
この意味が当初まったく理解できませんでした。
まず恥ずかしながら「自生探求」という言葉すら知りませんでした。今もぼんやりとしたイメージしかありませんが(苦笑)
それ以降のことは意味が理解できましたが、さらに「自分自身の消去」という意味がわかりませんでした。
このようなことを書くと、「なんなんだこいつ」という話ではありますが、普段「自分」というのをどういうものかという意識したことがないのかもしれません。
勿論、自分が「中原 陵成」という名を持つものであり、その名で積み重ねた「知識」「経験」「記憶」「それによって引き起こされる感情」というのは確かにあります。
けれども、それが「考える」ということに直結しないように感じます。「思考」の後にすべてをまとめているときに「積み重ねた自分」というフィルターを入れるのですね。
例えば本を読む間はできるだけ息を止めて読んでいるようです。特に集中している部分には。息を吸ってしまえば、自分の「思考」が入ってくるので、それを止めるのに行っているようですが。
そして、読み終わった時点で呼吸を感じながら、読んだ内容とその風景を自分の中の風景と重ねるそれが楽しみなのです。
昔から、自分の考えをまとめるのは非常に苦手で、喧嘩の最中(それも口喧嘩でないほうが…)それを楽しんで、何でそうなったか、どう収めるか、そんなときにしか考えない感じですから(最近はだいぶこれでも考えるようになったんですけれど)…
いつの間にか、それじゃぁさすがにまずいだろうと気がつきまして、わざと一つ以上の感覚をどっかに集中させて、余計な考えを排除しながら書き留めることにしました。
飽和状態にさせるんですね。自分の声が聞こえないくらいに音楽を聴いてもいいし、逆に繰り返し繰り返し一つの気になる言葉を言い続けてもいい。最悪痛みなどの感覚でも良いわけで(おひ)。
そこでなんか浮かんだら、それはあなたの言葉ですよ。
というわけで。また後ほど。
あーだから記憶が結構ぽろぽろ落ちてるんだ…特に誰かを見た記憶。
もったいないなぁ…
2004年12月24日(金) 二人の女神が舞い降りる
クリスマスでございます。
皆様どなたかと暖かい言の葉を交わされているかと思いますが、いかがでしょうか?
中原は数通のメールにてやり取りしました(苦笑)
で、昨日書いたことなのですが、少々脇においておいて。
ここをご覧の方は「自由の女神」というものはご存知だと思います。1886年に建てられて、紐育にいたマリアも見ているはずのあの女神。
そして今もう一人の女神が降りようと行動している方がいらっしゃいます。
神田昌典氏のBlog(神田昌典の毎日が奇跡http://blog.kandamasanori.jp/)を覗きに行って知ったのですが、「7つの習慣」という本を出されているスティーブン・コヴィー博士がアメリカ西海岸に「スタチュー・オブ・レスポンシビリティ(責任の女神)」を建造しようというのです。
これは実現したらすごいことになりそうです。
「自由」いい言葉なんです。実に。しかし、その自由というのが世界共通とはならないのです。その土地に応じた自由があり、それに応じた責任がある…といいますか、その自由と引き換えに負わなければいけない責任がある。
この二つのバランスが取れないと、ただの押し付けの力となってしまう。もしかしたらそれを「弾圧」と呼ぶかもしれないですがね。
自由のすばらしさ、それを血の重みを引き換えに知った仏蘭西からその女神は遣わされました。そして、その自由を一番の義とする国が「自由」の力を知って「責任」のバランスをとる。これが実現したら、随分と楽しい土地になるかもしれません。
もしもマリアが「義務」と「犠牲」を負った彼女がその降り立った女神の前に立つことがあるのなら、どのように思うのでしょうか?どのように感じるでしょうか?
2004年12月26日(日) 人のだまくらかしかた
いいえ、私は人を騙すのを良しとしません。
けれども騙して相手が幸せになるのなら、それはその方がいいのかもしれませんね?
前にかじった役者のメソッド。
人が騙される状況・感覚
そういう環境を作ってやれば、誰でも誰かを騙せるのだろうと思います。
けれどもそりゃ余興の範囲内でしか自分はできしません。
白き人でもないけれど、君らが求める人ではないけど
それらしく生きることは…多分できる。
後とっても必要なのは、騙される相手の方の心構え。
騙されたい人しか騙せないのだよ。
次は12/23にも書いた続き「わかる・分かる・判る・解る」とでも題して書いてみましょうかね。あの中での何がわかって何がわからないのか?
2004年12月28日(火) ですからね。
自分の中の解決できないことに関して、ヒプノセラピーを受けてみて、手っ取り早く解決したろうと思ったら、余計に恐怖症増やしてどうするよ…自分…(がっくし)今年一番の笑えるやら、悲しいやらのねたの一つ。
そんなこんなで、今年中に書いてしまいたいことが多いのですが、どっから書き始めたらいいのやら…
昨日に書いた「わかる」という言葉について、書くことにします。
最近急に意識し始めたんですが、自分、結構言葉についてわからなくなることが多いのです。音としてわかり、漢字もわかり、どのように使ったらいいのかもわかる。
けれども「どういう意味だかわからない」ということがよくあります。
辞書を引いたら載っています。それで日本語としては解かります。だけどその言葉をイメージしてもわかりません。
次に言葉の漢字も解からず、音だけがわかる。使い方が解からない。ただイメージだけは鮮やかである場合。
これもある意味「わかる」で、確認すればあってる場合も多いですが、結構そういう言葉に限って他の人も別のイメージで覚えていて意思の疎通が図れない(苦笑)
この二つの言葉の違いって自分の経験(本で読んだのも含めて)というフィルターを通して腑に落ちるか否かのような気がします。
当然イメージで覚えた言葉の方が使いやすいもんで、よく古めの言葉を使って回りと意思の疎通が図れないことが多々あります(笑)
ですから、私はその言葉たちを誰かと交わして、その人の持っているその言葉を見せてもらうのが好きなのです。
将来の夢もいつかくたばる前に、誰かに自分の言葉をその人の言葉として騙ってもらってそれを聞いた誰かが受け取る。そんな光景です。それが作られた言葉ではなく、「誰かの言葉」として受け止めてもらえると、これほど幸せなことはないかもしれません。
できればもっと辞書を引いて、いろんな本を読んで、いろんな話を聞いて、この二つの言葉たち、すり合わせていきたいですな。
2004年12月29日(水) 一つの約束、次の約束
「おねぇちゃん、今度山に行こう。雪見に行こう」
この言葉は相手に伝えたのでしょうか?
山が好きで、自然が好きで、人が好きだったあなたに自分はこういう言葉しか持たなかったような気がします。
そうすれば、また会ってくれると思ってましたから。
けれども夏の日を境に会うことはなくなりました。
それから何度も季節が過ぎて、なぜか約束をした人とは、その約束を果たすことなく別れることになり、だんだん約束をしなくなりました。
「桜を見よう、紅葉を見よう、雪を見に行こう」
結局一人で見に行くことにしてました。もしかしたら約束が有効かもしれない。そう思っていたのかもしれません。
けれども、数年前にある方たちと、思いつきでその約束をやってしまいました。
気がついたときには思いっきり後悔したんですが。
当たり前に実行されたのです。もううれしくて、うれしくて。
次の約束は残念ながらできませんでしたけれど、またやりたいなと思っています。
今日、雪が降りました。
純粋に雪を楽しんで、その雪を触って、ここに書きとめようとしています。
できれば、夜に降ってもらって雪見酒を楽しみたかったのに(笑)
それは街の人たちにご迷惑ですから、またどこかに酒を持って行くことにしましょう。北のほうにね。
そして桜の季節には、友人達と見に行く予定です。
性格も、価値観も。何より何にも知らない人同士です。けれども初対面の夜に出ている月に歓声を上げて気持ちよさそうに眺めていた人たちです。
また何か新しい風景が見えるのかもしれません。