出来る限り音を立てないよう廊下を駆けてくると、マリアは滑り込むように自室へと入った。
気づかれなかっただろうか。
テラスから歩いてくる大神とすみれの姿を思い出すと、マリアは扉に凭れたまま座り込んだ。
胸元を、服の上から押さえるように掴む。鎖の擦れる音が、ひどく耳障りに聞こえた気がした。
あれからもう三日。三人の様子は眼に見えておかしくなった。
すみれは平気で皆の前で大神に引っつくようになり、マリアのいる時にはあからさまに甘えた声を出してみせた。
大神はマリアに声をかけようとしては逃げられ、すみれの腕を振り切ることもできず、周囲の冷たい疑惑の視線に晒されつつも、何も答えようとはしなかった。
『どうして何も仰らないの!?』
マリアは何も言わなかった。
二人を問い質すわけでも、責め立てるわけでもなく、ただ姿を見かければ足早に踵を返し、舞台稽古と食事の際以外は部屋に篭もり続けていた。
約束から一年、桜舞う中で果たした束の間の再会。照れながらも、本当に嬉しそうだった大神の顔。高鳴る己の胸。あの時、ふたりの心は一つだったはずだ。
たった三ヶ月だと言ったのは自分。しかし、その三ヶ月の間に何があったのだろう。
神崎邸でのすみれの見合い騒動は聞いている。
資金援助のために、意に添わぬ相手と結婚するだなんて、そんなことは認められない。自分だって、その場にいたら積極的に参加しただろう。すみれは、大切な仲間なのだから……。
でも……大神にはそれ以上の意味があったのだろうか?
大神は真面目な人間だ。見合いをぶち壊したことへの責任は、少なからず感じていることだろう。
そうまでして取り戻したすみれへの責任。ああ、もしかしたら、そこまでの衝動を受けたことにより、本当はすみれを好いていると気づいてしまったのでは!?
すみれはいい娘だ。偽悪ぶっている節もあるが、繊細で、努力家で、本当は誰よりも寂しがりや。自らを輝かす、あの娘の気高い精神は大神と呼応するのだろう。……自分とは違って。
それに神崎家の一人娘という生まれ。大神はそんなことで人を判断したりしないのはわかっているが、海軍エリート士官と財閥令嬢。どこに文句のつけようがあろうか。……自分とは違って。
『あなたは……少尉に相応しくない!』
平気なわけがなかった。しかし、この上なく似つかわしい言葉に感じられた。
わかっていたことではないか。
大神に惹かれていると気づいてしまったあの日から、幾度となく繰り返しては距離を置き、それでも捨てられずに騙し騙し彼の隣に立ったところで、所詮……。
(私は……隊長に相応しくない……)
自分は花組の少女たちとは違う。眩しく、華やかな光の中で一つ、染みのように浮かぶ翳。
未だに襲われる感覚は、マリアを逃避へと押しやった。
「……ええ…………」
「…………それじゃ……」
思わず息を止める。
廊下から足音と話し声が聞こえてきた。この声は……。
「ねえ、よろしいでしょう?」
「いや、もう女性の部屋に入るには遅い時間だし……」
やはり大神とすみれだ。
暗闇の中で眼を見開き、耳を欹てる自分が、ひどく滑稽に感じられた。
「そんな……わたくしと少尉の仲ではありませんの」
「……少しだけだよ」
扉の閉まる音が、現実味なく響いた。
わかっていたことではないか。人の心は移ろいゆくものだ、と。永遠などない、と。
よく知っていたはずなのに、いつのまにか信じていた? いや、信じさせてくれたのは紛れもなく……。
知らなければよかった。取り戻さなければよかったのだ。人を想う心も、誰かに想われる喜びも。
顔を覆う。
二人が憎い?
……いいえ、いいえ。
「……私、なんか……」
約束を、また破ってしまった。
こんなはずではなかった。
「すみれくん……」
気遣わしげな大神の視線から逃げるように、すみれは背を向けた。
気づかれないよう、小さく息を吐くと笑みを作る。まだ、大丈夫だ。
「お座りになって。今お茶をご用意いたしますわ」
「でも、もう休んだ方が……」
「あら、わたくしの入れたお紅茶、お嫌だと仰いますの?」
少しだけ意地悪く言ってみる。
予想通り大神は慌てて否定し、すみれはまた一つ、心中で溜め息を吐いた。
馬鹿げた芝居だ。
独り毒づいたその矛先は紛れもなく自分。なんて愚かなことなのかと、自分が一番よくわかっている。
すみれがどんなに甘えても、どんなに我が儘を言っても、大神は拒絶しなかった。ただ困ったように笑っているだけ。
でも、気づかないとでも思っているのだろうか? 彼はこちらを見ていない。話している時も、腕を組んでいる時も、いつもあの女性のことを考えている。
今し方だってそうだ。廊下で頻りに彼女の部屋の扉を覗っていたではないか。
だからあれほどまで露骨に誘ったのだと、彼はわかっているのだろうか?
沼地のようだった。藻掻けば藻掻くほど沈んでゆく、底無しの泥沼。
叱らないのは後ろめたさ? 耐えられなかった。いっそ怒鳴りつけてくれるのなら、この茶番から抜け出せるものを。
こんなはずではなかった。
「少尉……」
長椅子の大神に寄り添う。
「すみれくん……」
口は笑っているのに眉を寄せたその表情。もう、見飽きてしまった。
白い指が伸び、大神の頬を、そして唇をなぞってゆく。被せるように顔を近づけ、くちづけをした。
「…………」
「…………」
大神は気づいてしまった。すみれがひどく窶れた顔をしているのを。
化粧で隠そうとはしているものの、頬は痩け、目元には隈が浮いている。
そっと頬に手を当て痛ましげな顔をされ、すみれは思わず顔を背ける。
誤魔化すように抱きつき、そして自ら帯を解いた。
「ねえ、少尉……」
大神は何も言わず抱き上げる。その白い肢体を、白い寝台へと。
こんなはずではなかった。
好みの殿方をからかっているつもりだった。
頼れる上官として敬っているつもりだった。
恋をしたからには勝ってみせるつもりだった。
大神が彼女と特別な関係になった時、これで終わりなのだと諦めたつもりだった。
あのまま巻菱家に嫁ぎ、もう二度と会わないつもりだった。
たった一度。あの一夜で再燃した感情を清算したつもりだった。
何事もなかったように、時間は再び流れ出したつもりだった。
こんなはずではなかった。
山より高いプライドなんて持ったところで、一文の得にもならないことなどわかっている。
それでも気高く生きてゆこうと決めたではないか。自分が、自分であるために。
だが、この姿は何だ?
どろどろと何かが身体に纏わりつき、脚は踏み出すごとに沈んでゆく。この手を引くのは、愛しいあの人なのか?
嫌だ。こんなのは自分ではない。形振り構わず追い求める、浅ましい女であっていいわけがない。
なぜなら、自分は神崎すみれなのだから。
こんなはずではなかった。
優しすぎる魔法使いは、魔法を完全に解いてはくれなかった。それがどんなに残酷なことかも知らず。
夜が明け、髪が崩れ、化粧は落ち、ドレスが擦り切れ色褪せても解け切れない魔法など、一体誰が望んだか。
降りない幕? 引き時を失った役者に与えられるは、野次と嘲笑のみ。
醒めない夢? だが、これは悪夢だ。夢魔に食い尽くされるまで、愛憎の沼で溺れ死ぬまで、終わりは来ない!
こんなはずではなかった。こんなはずではなかった。決して、こんなはずでは……!
衣擦れの音だけが響く。
白いシーツ一枚に包まったすみれは栗色の髪を弄びながら、思い人が立てるその音を聞いていた。
今も、彼女のことを考えているのだろう? 他の女を抱いている時でさえ、いつもどこか嘘吐きな人だから。
「…………」
「…………」
大神は、何も言わず着替えている。
すみれは、何も言わず空(くう)を見ている。
ふと視線を上げると、窓辺に生けた百合の花が眼に入った。
褪せた花弁が一枚、はらりと落ちる。
……もう、限界だ。
幕は、自分で降ろすしかない。
「……少尉」
壁を向いたまま声をかける。
「……何だい?」
ネクタイを締めながら訊き返す。
「わたくしのこと……どう思ってらっしゃるの?」
「…………」
「…………」
「すみれくんは……」
ノブに手をかけ、振り返った。
「……大切な、女の子だよ」
それは、優しすぎる言葉だった。
人を傷つけることが罪ならば、自分は一生かけても償い切れない罪科を負っているのだろう。
しかし自分に何ができたか。どうすることが最良だったというのか。
戸締まりを確認し、次の部屋へ向かう。
すみれの部屋を出た大神は、劇場の見回りをしながら自問した。
なぜ、すみれを拒まなかった?
あれほどまで感情を剥き出しにした彼女は初めて見た。思いの丈をぶつける姿が眩しかった。あの娘の若すぎる情熱を受け止めてやるべきだ。いや、受け止めてやりたかった。
……わかっている。それはエゴイズム。少女の願いを叶えたために、いや、自分の欲求を満たしたために、彼女も、そしてもう一人の人間をも傷つけた。
なぜ、マリアを追いかけなかった?
見る見る遠ざかってゆく、夕陽に染め上げられた背中が離れない。顔を合わせるたびに、余所余所しく逸らされる視線が離れない。
いや、追いかけたところで何ができただろうか。その腕を掴み、強引にでも抱き寄せ、愛の言葉でも囁くのか? 彼女を裏切ったこの自分が。
いつから狂い出したのだろう。
マリアが立ち去っていった夕暮れのテラスから?
すみれが訪ねてきた星空の夜から?
ふっ、と自嘲の笑みが浮かぶ。
もう長いこと……ああ、そうだ、マリアと想いを繋げたあの日から間違っていた気がしてならない。
信頼の絆で結ばれた上官と部下。やはりそれ以上の関係になど、なるべきではなかったのではないか?
こんな……誰かを傷つける結果しか生み出さないのならば。
『言いたくないのなら、無理に言わなくてもいいわ』
そう微笑んだかえでの顔に僅かに浮かぶ、無力さへの嘆き。
『何しやがったんだよっ、隊長!!』
胸倉を掴まんばかりの勢いで捲くし立てた、カンナの怒り。
劇場に蔓延する不愉快な緊張感と苛立ち。
少女たちの不安げな顔が、責めるように伸しかかる。
自分の立場を弁えろ。今、敵襲があったらどうするつもりだ?
こんな問題を起こすことは許されない。少なくとも、この花園はそれを持ち込むところではない。
帝都の平和を担う華撃団の隊長、か……。たった一人の人間さえ幸せにできずに、一体何を護るというのだろう。
それでも……。
……カタッ。
「……?」
大神は物音がした方へと向かった。
彼はそこで、終幕を見る。
少女は独り舞う。
風を孕んだ袖が弧を描き、翻る裾から覗く白い足袋が眼に眩しい。
少女は独り舞う。
華麗に、優雅に、大胆に。彼女は大輪の華だった。
「…………」
不意に動きが止まった。
人の気配。振り返らずともわかる。
「……お待ちしていましたわ、マリアさん」
「!」
「お手紙、見てくださったんですのね。ええ、わたくしがお呼びしたんですの」
気配は息を呑み、そして去ろうとした。
「……まだ逃げるんですの!?」
振り向き様に声を上げる。
俯き、立ち竦んだ人影は、果たしてマリアだった。
「…………」
「…………」
「……何の用?」
「……マリアさん。わたくし、あなたのことは仲間として信頼していますし、その能力も評価していますわ」
質問には答えずに、すみれは再び背を向けると一方的に話し出した。
「でも、昔からどうしても相容れないことがございましたの」
「…………」
「……あなたの、その自虐趣味ですわ」
ぴくりと、形のよい眉が上がる。
「…………」
「…………」
「……あなたに、何がわかるのよ」
「……ええ、わかりませんわ! わかりたくもありませんわよ!」
すみれは突如声を荒げると、きっ、と眼を吊り上げて振り返った。
「自分でさえ認められないのに誰かから好かれようなんて、虫がよすぎますわっ!!」
それは悲鳴だった。
「わからないんですの!? 自分を貶めれば、あなたを好いている少尉まで貶めることになるんですのよ!」
これが償いだなんて言えない。言いたいとも思わない。
ただ思い人のため。友人のため。そして自分のため。そのすべてを込め、マリアを睨むように見据えると、言い放つ。
「そんなことは、このわたくしが許しませんわ!!」
ガタッ……。
「「!!」」
四つの瞳が振り返った先には、倒れたモップと困惑顔で立ち尽くしている大神がいた。
「その、俺は……」
謝罪を述べようとする大神の脇を擦り抜け、マリアは舞台袖へと歩き出した。
「……待ってくれ」
絞り出すような声と、掴まれた腕。
一瞬、竦むように立ち止まった身体と、振り返りたい誘惑。しかし……。
「……嫌! 放して!」
大神が思わぬ拒絶に怯んだ隙に腕を振り切り、マリアは駆け出した。
「マリア!」
小さくなってゆく姿に呼びかけ、一旦は踏み出した脚を大神は止める。
見てしまった。すみれの肩が小刻みに揺れ動いているのを。
「……どうして追いかけないんですの!?」
背を向けたまま、怒ったようにすみれは叫んだ。
「すみれくん……」
「わかっていますわ。だから、早く……」
華奢な肩も、線の細い声も、震えている。
頑なな、背中。
手を伸ばす。
自分の役目でなくても。たとえ、許されないことでも。
「俺は……」
「早く……早くお行きなさい!」
ただ、この娘を……。
「……早く行ってぇっ!!」
すべてを拒む、激昂。
差し伸べた手は阻まれ、やがて力を失い、そして地へと垂れた。
「……すまない」
噛み締めた唇からは血の味がした。
大神は駆け出した。孤高の少女を、独り残して。
足音が届かなくなると、すみれはへたりとその場に崩れた。
両手を床につき、頭(こうべ)を垂れ、切り揃えた髪がその顔(かんばせ)を隠す。
すまない、か……。
本当に酷い人だ。謝ってなんかほしくない。情けなんてほしくない。惨めになるだけ。独善的な優しさは人を傷つけるだけ……!
つっ、と熱い滴が頬を伝った。
気がつけば、床に水滴が幾つも幾つも落ちていた。
いいえ、辛くなんてない。傷ついたりなんてしない。初めからわかっていたことなのだから。
……では、この涙は?
「……ふっ、ふふっ……」
そう、ここは舞台。
幕は降りた。そして、再び上がった時にはもう自分の出番はない。主人公は愚かな女の未練を振り切り、ヒロインのもとへと行くのだろう。
そう、これは演技。
見事だったではないか。自分は引き立て役を完璧に演じてみせたのだ。自分は女優。生まれついての女優。相応しいではないか。
そう、ここは舞台。
だから辛くなんてない。傷ついたりなんてしない。この悲しみも、この涙も、全部全部お芝居なのだから。
潮風が穏やかに、少女の頬を撫でていった。
海鳥の鳴き声。灼熱の砂浜。
寄せては返す波を、レースの日傘を手にすみれは一人眺めていた。
米田の計らいで訪れた熱海。
海へ山へと繰り出し、仲間たちと騒いだ楽しい時間。敵襲という思わぬ出来事もあったが、この旅行も今日で終わり。
あれは初日の夜だったか。大神の部屋に忍び込んでみたことがあった。
慌てふためく彼と、マリアの鋭い視線がおかしかった。
二人とも、あれは絶対本気だった。
くすりと笑みを漏らす。そんな自分に驚いた。
傘を閉じ、容赦なく降り注ぐ陽光に眼を細める。
手を離れた日傘が倒れるのも構わず、すみれは両手を広げると、その身体を捧げるように晒した。
突き刺さる光、光、光。
白い光。白い季節。
眩しい。この光の中に溶けていってしまいそう。
真っ白な季節だった。
そしてこの身も、白く消えてゆけばいい。
後悔? いいえ、決してそんなことはしない。
命燃やした、真実の恋なのだから。
波音はただ静かに、少女を癒すように響いていた。
-了-