差し伸べし手

-6-

 出来る限り音を立てないよう廊下を駆けてくると、マリアは滑り込むように自室へと入った。

 気づかれなかっただろうか。
 テラスから歩いてくる大神とすみれの姿を思い出すと、マリアは扉に凭れたまま座り込んだ。
 胸元を、服の上から押さえるように掴む。鎖の擦れる音が、ひどく耳障りに聞こえた気がした。



 あれからもう三日。三人の様子は眼に見えておかしくなった。
 すみれは平気で皆の前で大神に引っつくようになり、マリアのいる時にはあからさまに甘えた声を出してみせた。
 大神はマリアに声をかけようとしては逃げられ、すみれの腕を振り切ることもできず、周囲の冷たい疑惑の視線に晒されつつも、何も答えようとはしなかった。

『どうして何も仰らないの!?』

 マリアは何も言わなかった。
 二人を問い質すわけでも、責め立てるわけでもなく、ただ姿を見かければ足早に踵を返し、舞台稽古と食事の際以外は部屋に篭もり続けていた。



 約束から一年、桜舞う中で果たした束の間の再会。照れながらも、本当に嬉しそうだった大神の顔。高鳴る己の胸。あの時、ふたりの心は一つだったはずだ。
 たった三ヶ月だと言ったのは自分。しかし、その三ヶ月の間に何があったのだろう。

 神崎邸でのすみれの見合い騒動は聞いている。
 資金援助のために、意に添わぬ相手と結婚するだなんて、そんなことは認められない。自分だって、その場にいたら積極的に参加しただろう。すみれは、大切な仲間なのだから……。
 でも……大神にはそれ以上の意味があったのだろうか?

 大神は真面目な人間だ。見合いをぶち壊したことへの責任は、少なからず感じていることだろう。
 そうまでして取り戻したすみれへの責任。ああ、もしかしたら、そこまでの衝動を受けたことにより、本当はすみれを好いていると気づいてしまったのでは!?

 すみれはいい娘だ。偽悪ぶっている節もあるが、繊細で、努力家で、本当は誰よりも寂しがりや。自らを輝かす、あの娘の気高い精神は大神と呼応するのだろう。……自分とは違って。
 それに神崎家の一人娘という生まれ。大神はそんなことで人を判断したりしないのはわかっているが、海軍エリート士官と財閥令嬢。どこに文句のつけようがあろうか。……自分とは違って。

『あなたは……少尉に相応しくない!』

 平気なわけがなかった。しかし、この上なく似つかわしい言葉に感じられた。

 わかっていたことではないか。
 大神に惹かれていると気づいてしまったあの日から、幾度となく繰り返しては距離を置き、それでも捨てられずに騙し騙し彼の隣に立ったところで、所詮……。

(私は……隊長に相応しくない……)

 自分は花組の少女たちとは違う。眩しく、華やかな光の中で一つ、染みのように浮かぶ翳。
 未だに襲われる感覚は、マリアを逃避へと押しやった。



「……ええ…………」
「…………それじゃ……」

 思わず息を止める。
 廊下から足音と話し声が聞こえてきた。この声は……。

「ねえ、よろしいでしょう?」
「いや、もう女性の部屋に入るには遅い時間だし……」

 やはり大神とすみれだ。
 暗闇の中で眼を見開き、耳を欹てる自分が、ひどく滑稽に感じられた。

「そんな……わたくしと少尉の仲ではありませんの」
「……少しだけだよ」

 扉の閉まる音が、現実味なく響いた。

 わかっていたことではないか。人の心は移ろいゆくものだ、と。永遠などない、と。
 よく知っていたはずなのに、いつのまにか信じていた? いや、信じさせてくれたのは紛れもなく……。
 知らなければよかった。取り戻さなければよかったのだ。人を想う心も、誰かに想われる喜びも。

 顔を覆う。
 二人が憎い?
 ……いいえ、いいえ。

「……私、なんか……」

 約束を、また破ってしまった。

-7-

 こんなはずではなかった。

「すみれくん……」

 気遣わしげな大神の視線から逃げるように、すみれは背を向けた。
 気づかれないよう、小さく息を吐くと笑みを作る。まだ、大丈夫だ。

「お座りになって。今お茶をご用意いたしますわ」
「でも、もう休んだ方が……」
「あら、わたくしの入れたお紅茶、お嫌だと仰いますの?」

 少しだけ意地悪く言ってみる。
 予想通り大神は慌てて否定し、すみれはまた一つ、心中で溜め息を吐いた。



 馬鹿げた芝居だ。
 独り毒づいたその矛先は紛れもなく自分。なんて愚かなことなのかと、自分が一番よくわかっている。

 すみれがどんなに甘えても、どんなに我が儘を言っても、大神は拒絶しなかった。ただ困ったように笑っているだけ。
 でも、気づかないとでも思っているのだろうか? 彼はこちらを見ていない。話している時も、腕を組んでいる時も、いつもあの女性のことを考えている。

 今し方だってそうだ。廊下で頻りに彼女の部屋の扉を覗っていたではないか。
 だからあれほどまで露骨に誘ったのだと、彼はわかっているのだろうか?

 沼地のようだった。藻掻けば藻掻くほど沈んでゆく、底無しの泥沼。
 叱らないのは後ろめたさ? 耐えられなかった。いっそ怒鳴りつけてくれるのなら、この茶番から抜け出せるものを。



 こんなはずではなかった。

「少尉……」

 長椅子の大神に寄り添う。

「すみれくん……」

 口は笑っているのに眉を寄せたその表情。もう、見飽きてしまった。
 白い指が伸び、大神の頬を、そして唇をなぞってゆく。被せるように顔を近づけ、くちづけをした。

「…………」
「…………」

 大神は気づいてしまった。すみれがひどく窶れた顔をしているのを。
 化粧で隠そうとはしているものの、頬は痩け、目元には隈が浮いている。

 そっと頬に手を当て痛ましげな顔をされ、すみれは思わず顔を背ける。
 誤魔化すように抱きつき、そして自ら帯を解いた。

「ねえ、少尉……」

 大神は何も言わず抱き上げる。その白い肢体を、白い寝台へと。





 こんなはずではなかった。

 好みの殿方をからかっているつもりだった。
 頼れる上官として敬っているつもりだった。
 恋をしたからには勝ってみせるつもりだった。
 大神が彼女と特別な関係になった時、これで終わりなのだと諦めたつもりだった。
 あのまま巻菱家に嫁ぎ、もう二度と会わないつもりだった。
 たった一度。あの一夜で再燃した感情を清算したつもりだった。
 何事もなかったように、時間は再び流れ出したつもりだった。



 こんなはずではなかった。

 山より高いプライドなんて持ったところで、一文の得にもならないことなどわかっている。
 それでも気高く生きてゆこうと決めたではないか。自分が、自分であるために。
 だが、この姿は何だ?

 どろどろと何かが身体に纏わりつき、脚は踏み出すごとに沈んでゆく。この手を引くのは、愛しいあの人なのか?
 嫌だ。こんなのは自分ではない。形振り構わず追い求める、浅ましい女であっていいわけがない。
 なぜなら、自分は神崎すみれなのだから。



 こんなはずではなかった。

 優しすぎる魔法使いは、魔法を完全に解いてはくれなかった。それがどんなに残酷なことかも知らず。
 夜が明け、髪が崩れ、化粧は落ち、ドレスが擦り切れ色褪せても解け切れない魔法など、一体誰が望んだか。

 降りない幕? 引き時を失った役者に与えられるは、野次と嘲笑のみ。
 醒めない夢? だが、これは悪夢だ。夢魔に食い尽くされるまで、愛憎の沼で溺れ死ぬまで、終わりは来ない!

 こんなはずではなかった。こんなはずではなかった。決して、こんなはずでは……!





 衣擦れの音だけが響く。
 白いシーツ一枚に包まったすみれは栗色の髪を弄びながら、思い人が立てるその音を聞いていた。

 今も、彼女のことを考えているのだろう? 他の女を抱いている時でさえ、いつもどこか嘘吐きな人だから。

「…………」
「…………」

 大神は、何も言わず着替えている。
 すみれは、何も言わず空(くう)を見ている。

 ふと視線を上げると、窓辺に生けた百合の花が眼に入った。
 褪せた花弁が一枚、はらりと落ちる。

 ……もう、限界だ。
 幕は、自分で降ろすしかない。



「……少尉」

 壁を向いたまま声をかける。

「……何だい?」

 ネクタイを締めながら訊き返す。

「わたくしのこと……どう思ってらっしゃるの?」
「…………」
「…………」
「すみれくんは……」

 ノブに手をかけ、振り返った。

「……大切な、女の子だよ」

 それは、優しすぎる言葉だった。

-8-

 人を傷つけることが罪ならば、自分は一生かけても償い切れない罪科を負っているのだろう。
 しかし自分に何ができたか。どうすることが最良だったというのか。



 戸締まりを確認し、次の部屋へ向かう。
 すみれの部屋を出た大神は、劇場の見回りをしながら自問した。

 なぜ、すみれを拒まなかった?
 あれほどまで感情を剥き出しにした彼女は初めて見た。思いの丈をぶつける姿が眩しかった。あの娘の若すぎる情熱を受け止めてやるべきだ。いや、受け止めてやりたかった。
 ……わかっている。それはエゴイズム。少女の願いを叶えたために、いや、自分の欲求を満たしたために、彼女も、そしてもう一人の人間をも傷つけた。

 なぜ、マリアを追いかけなかった?
 見る見る遠ざかってゆく、夕陽に染め上げられた背中が離れない。顔を合わせるたびに、余所余所しく逸らされる視線が離れない。
 いや、追いかけたところで何ができただろうか。その腕を掴み、強引にでも抱き寄せ、愛の言葉でも囁くのか? 彼女を裏切ったこの自分が。



 いつから狂い出したのだろう。
 マリアが立ち去っていった夕暮れのテラスから?
 すみれが訪ねてきた星空の夜から?

 ふっ、と自嘲の笑みが浮かぶ。
 もう長いこと……ああ、そうだ、マリアと想いを繋げたあの日から間違っていた気がしてならない。
 信頼の絆で結ばれた上官と部下。やはりそれ以上の関係になど、なるべきではなかったのではないか?
 こんな……誰かを傷つける結果しか生み出さないのならば。



『言いたくないのなら、無理に言わなくてもいいわ』

 そう微笑んだかえでの顔に僅かに浮かぶ、無力さへの嘆き。

『何しやがったんだよっ、隊長!!』

 胸倉を掴まんばかりの勢いで捲くし立てた、カンナの怒り。

 劇場に蔓延する不愉快な緊張感と苛立ち。
 少女たちの不安げな顔が、責めるように伸しかかる。

 自分の立場を弁えろ。今、敵襲があったらどうするつもりだ?
 こんな問題を起こすことは許されない。少なくとも、この花園はそれを持ち込むところではない。

 帝都の平和を担う華撃団の隊長、か……。たった一人の人間さえ幸せにできずに、一体何を護るというのだろう。
 それでも……。



 ……カタッ。

「……?」

 大神は物音がした方へと向かった。
 彼はそこで、終幕を見る。

-9-

 少女は独り舞う。
 風を孕んだ袖が弧を描き、翻る裾から覗く白い足袋が眼に眩しい。

 少女は独り舞う。
 華麗に、優雅に、大胆に。彼女は大輪の華だった。



「…………」

 不意に動きが止まった。
 人の気配。振り返らずともわかる。

「……お待ちしていましたわ、マリアさん」
「!」
「お手紙、見てくださったんですのね。ええ、わたくしがお呼びしたんですの」

 気配は息を呑み、そして去ろうとした。

「……まだ逃げるんですの!?」

 振り向き様に声を上げる。
 俯き、立ち竦んだ人影は、果たしてマリアだった。



「…………」
「…………」
「……何の用?」
「……マリアさん。わたくし、あなたのことは仲間として信頼していますし、その能力も評価していますわ」

 質問には答えずに、すみれは再び背を向けると一方的に話し出した。

「でも、昔からどうしても相容れないことがございましたの」
「…………」
「……あなたの、その自虐趣味ですわ」

 ぴくりと、形のよい眉が上がる。

「…………」
「…………」
「……あなたに、何がわかるのよ」
「……ええ、わかりませんわ! わかりたくもありませんわよ!」

 すみれは突如声を荒げると、きっ、と眼を吊り上げて振り返った。

「自分でさえ認められないのに誰かから好かれようなんて、虫がよすぎますわっ!!」

 それは悲鳴だった。

「わからないんですの!? 自分を貶めれば、あなたを好いている少尉まで貶めることになるんですのよ!」

 これが償いだなんて言えない。言いたいとも思わない。
 ただ思い人のため。友人のため。そして自分のため。そのすべてを込め、マリアを睨むように見据えると、言い放つ。

「そんなことは、このわたくしが許しませんわ!!」

 ガタッ……。

「「!!」」

 四つの瞳が振り返った先には、倒れたモップと困惑顔で立ち尽くしている大神がいた。



「その、俺は……」

 謝罪を述べようとする大神の脇を擦り抜け、マリアは舞台袖へと歩き出した。

「……待ってくれ」

 絞り出すような声と、掴まれた腕。
 一瞬、竦むように立ち止まった身体と、振り返りたい誘惑。しかし……。

「……嫌! 放して!」

 大神が思わぬ拒絶に怯んだ隙に腕を振り切り、マリアは駆け出した。

「マリア!」

 小さくなってゆく姿に呼びかけ、一旦は踏み出した脚を大神は止める。
 見てしまった。すみれの肩が小刻みに揺れ動いているのを。

「……どうして追いかけないんですの!?」

 背を向けたまま、怒ったようにすみれは叫んだ。

「すみれくん……」
「わかっていますわ。だから、早く……」

 華奢な肩も、線の細い声も、震えている。

 頑なな、背中。
 手を伸ばす。
 自分の役目でなくても。たとえ、許されないことでも。

「俺は……」
「早く……早くお行きなさい!」

 ただ、この娘を……。

「……早く行ってぇっ!!」

 すべてを拒む、激昂。
 差し伸べた手は阻まれ、やがて力を失い、そして地へと垂れた。

「……すまない」

 噛み締めた唇からは血の味がした。
 大神は駆け出した。孤高の少女を、独り残して。





 足音が届かなくなると、すみれはへたりとその場に崩れた。
 両手を床につき、頭(こうべ)を垂れ、切り揃えた髪がその顔(かんばせ)を隠す。

 すまない、か……。
 本当に酷い人だ。謝ってなんかほしくない。情けなんてほしくない。惨めになるだけ。独善的な優しさは人を傷つけるだけ……!

 つっ、と熱い滴が頬を伝った。
 気がつけば、床に水滴が幾つも幾つも落ちていた。

 いいえ、辛くなんてない。傷ついたりなんてしない。初めからわかっていたことなのだから。
 ……では、この涙は?

「……ふっ、ふふっ……」

 そう、ここは舞台。
 幕は降りた。そして、再び上がった時にはもう自分の出番はない。主人公は愚かな女の未練を振り切り、ヒロインのもとへと行くのだろう。

 そう、これは演技。
 見事だったではないか。自分は引き立て役を完璧に演じてみせたのだ。自分は女優。生まれついての女優。相応しいではないか。

 そう、ここは舞台。
 だから辛くなんてない。傷ついたりなんてしない。この悲しみも、この涙も、全部全部お芝居なのだから。

-10-

 潮風が穏やかに、少女の頬を撫でていった。

 海鳥の鳴き声。灼熱の砂浜。
 寄せては返す波を、レースの日傘を手にすみれは一人眺めていた。



 米田の計らいで訪れた熱海。
 海へ山へと繰り出し、仲間たちと騒いだ楽しい時間。敵襲という思わぬ出来事もあったが、この旅行も今日で終わり。

 あれは初日の夜だったか。大神の部屋に忍び込んでみたことがあった。
 慌てふためく彼と、マリアの鋭い視線がおかしかった。

 二人とも、あれは絶対本気だった。
 くすりと笑みを漏らす。そんな自分に驚いた。



 傘を閉じ、容赦なく降り注ぐ陽光に眼を細める。
 手を離れた日傘が倒れるのも構わず、すみれは両手を広げると、その身体を捧げるように晒した。

 突き刺さる光、光、光。

 白い光。白い季節。
 眩しい。この光の中に溶けていってしまいそう。



 真っ白な季節だった。
 そしてこの身も、白く消えてゆけばいい。

 後悔? いいえ、決してそんなことはしない。
 命燃やした、真実の恋なのだから。



 波音はただ静かに、少女を癒すように響いていた。

-了-