それは、あまりに唐突な言葉だった。
わかって言っているのだろうか?
思わずそう疑ってしまうほど意外すぎ、目の前のうら若い、この年代特有の潔癖さを持つ少女が口にするには、およそ想像もできない一言だった。
消灯時間も過ぎ、そろそろ床に就こうとしていた大神のもとに現れたのはすみれだった。
今日千秋楽を終えた、夏公演の興奮が醒めていないのだろうか。
少しだけ緊張した面持ちで「話したいことがある」と言った彼女を、そのくらいに気を留めながら招き入れ、話をしていただけだった。
別におかしなことがあったわけではない。
夏公演のこと、大神の演習航海のこと、新たに加わった隊員のこと……。様々に咲いた話題が先日の神崎邸での騒動に移った時、いつもの勝ち気なそれとは違う、しおらしい顔で改めて礼を言われ、少しだけまごついてしまっただけだった。
そんな大神をすみれはくすりと笑い、そして……。
「少尉、お願いがございますの」
「何だい?」
「……わたくしを、抱いてください」
今宵再び、舞台の幕が上がる。
橘花大戦
差し伸べし手
「ちょっと待ったぁーっ!」
突き破るように盛大な音を立てて扉が開く。制止を叫びながら飛び込んできたのは、頼もしき朋友、そして……。
「……何だ、お前たちは」
「帝国華撃団花組、隊長の大神一郎です!」
もうその声を聞くことはないのだと、その姿を見ることはないのだと覚悟していたはずだった。
(少尉……!!)
身体の奥から喜びが溢れ出る。駆け巡る。
手を伸ばして掴むことができるもの。それがきっと、自分の護るものなのだ。
すみれは駆けた。囚われの高楼から救い出してくれた青年と共に。大切なものを、二度と手放さないために。
こうしてすみれは、華撃団への劇的な復帰を果たした。
また、それは歌劇団へも然り。夏公演「リア王」ではトップスターの本領発揮か、華のある存在感にずば抜けた演技力、そして新たな評価として与えられた内から滲み出るような輝きは、観客の大歓声を以って迎えられた。
やがてその千秋楽も大成功を収めた夜、大帝国劇場は隊長室の扉を叩く、一人の少女の姿があった。
その言葉を口にすると、大神は眼を見開き動きを止めた。
すみれは白い手を伸ばすと、彼の頬にそっと触れる。
そのままゆっくりと顎から首筋へと這わせてゆく間、大神の瞳を見つめる彼女のそれは、情熱に揺れては滲んだ。すみれの瞳の奥に、彼は炎を見た。
そっと抱き寄せ、腕の中に収められた。夢にまで見たその温もりにすみれはうっとりと頬を染め、彼の厚い胸板に寄りかかる。
汗の混じった体臭。男の匂い。不快ではなかった。ああ、そしてこの人は、日溜まりの匂いがする。
だが、すぐにその顔は曇った。
抱き締めてくれない。回された腕は飽くまで優しく背中に添えられ、時折ぽんぽんと軽く叩くのみ。まるで、幼子でもあやすように。
恐る恐る見上げるその顔。眉を寄せ、縋るような眼差し。
道端に捨てられた子猫のような表情に大神は顔を歪めたが、すぐに静かなそれに戻し言った。
「もう部屋に戻った方がいい」
大神は何を言っているのだろう。
「明日に響くよ。さあ、もうお休み」
……嘘。こんなの、嘘だ。
いつのも穏やかな声。だがそれは、すみれにとって死刑宣告に等しかった。
「……どうして」
辛うじて絞り出した声に、大神は悲しそうに眉を寄せるとぽつりと言った。
「……すまない」
自分の中で、何かが音を立てて切れるのがわかった。
「……よっ、よくもそんなことが言えますわね! すまないと思うなら抱き締めてくださいまし! このわたくしに恥をかかせるおつもりですの!?」
違う! そんなこと思っていない!
心のどこかが上げる声とは裏腹に、大神のシャツを掴み、食いかかる。その肩は宥めるように押さえられた。
「ごめんとしか言えない。君を傷つけたくない」
苦しげに逸らされた視線。
「……嫌! そんなの嫌!!」
ひっ、と息を呑むと、すみれは栗色の髪を振り乱し、声を張り上げる。
どうしてここまで動揺しているのか、自分でもわからない。ただどうしようもない衝動が、心身を蹂躙してゆく。
「どうして……どうしてなんですの!? わたくしでは駄目なんですの!?」
「すみれくん!!」
突如荒げられた声に、すみれははっと身を竦めた。
「……そんなこと言うものじゃない」
一転静かに呟いた大神の顔は、今まで見たどんな表情よりも苦渋に満ちている。
目頭が熱くなり、それを悟られまいと、彼の胸に顔を埋めた。
「……ごめんなさい」
大神は何も言わず、僅かな躊躇の後、先程よりは強くすみれを抱き締める。その優しさが痛かった。
「……でもお願いです。今夜だけでいいんですの。今夜だけ、わたくしを……」
これは我が儘だ。友人たちへの裏切りだ。
しかしすみれは顔を上げると、大神の眼をまっすぐに見つめた。
「わたくしを、抱いてください……」
それは何も知らぬ少女ゆえの衝動、あるいは好奇心だったのかもしれない。
だが、すみれは満たされた。大きな、温かい身体にすっぽりと包まれ、思い人の名を花色の吐息に乗せた。
大神は華奢な身体を慈しむように抱き締め、その白絹の肌に僅かな痣も残さぬほどの、優しいくちづけを降らせた。
夜空の煌きは一人の少女の瞳に宿り、熱い滴となって零れ落ちた。
一夜限りの魔法。
そう、夜が明ければ、それですべて終わりになるはずだった。
白い季節。
開け放たれた窓から見える景色を眺めていたら、ふとそんな言葉が浮かんだ。
暦は七月。
帝都は容赦ない陽射しに照りつけられ、連日茹だるような暑さが続いている。
普段は煙に覆われる空も、埃立つ街道も、くすんだ家屋も、この季節だけは神聖なまでの白さを放つ。この心身までも、白く浄化されてゆく気すらする。
すべては降り注ぐ光の洪水に掻き消されてゆく、夏。この感覚は嫌いではない。
すみれは満足げに微笑むと、卓につき茶器を手に取った。
ここ、サロンで紅茶を飲むのは帝劇に来て以来の日課だ。彼女はこの場所を大層気に入っていて、劇場の改修工事の際には自ら内装を決めたほどである。
二杯目を入れていると、廊下へと続く扉が軽く音を立てて開かれた。姿を見せたのは黒髪の青年。
「あら、少尉じゃありませんこと?」
「やあ、すみれくん。お茶の時間かい?」
本人が意識しているかどうかは別として、すみれがこの場所を好むのは彼も関係しているに違いない。そう、彼――大神が立ち寄ることへの期待も、少なからずあるのだろう。
あの夜――すみれが大神の部屋を訪れた夜から三日が経った。
何もなかったような振る舞いは功を奏しているようで、誰も二人の変化を取り立てたりすることはなかった。
ただ、すみれが普段から身に纏わせていた、どこか鋭利な空気が和らいだことは、皆程度の差こそあれ感じている。
しかし、それの意味するところは気づいていないらしい。もっともそれは、付き合いの深い花組の面々が、皆少女だったからなのかもしれないが。
いつから、この人に恋をしたのだろう。
自分の入れた紅茶を美味しそうに飲んでくれる横顔を見ながら、ふと考えた。
あれはもう二年も前。深夜のプールで溺れかけ、大神に助けられたことがあった。
不用心を叱りつけた厳しい顔と、その後の労わるような笑顔。相手を本心から思いやる、彼のその優しさ。ああ、そうだ。あの時、自分の中に何かが芽生えたのだ。
共に過ごした月日は、大神への感情を確かな信頼へ、そして恋慕へと変えていった。
洒落た会話の裏で焦がした胸。冗談めかして繰り返した駆け引き。
しかしいつしか彼の胸に、他の少女たちとは少しだけ違う場所にいたのは自分ではなかった。
一つの戦いが終わり、二人が極寒の地から帰ってきた時、すみれは理解してしまった。もう駄目なのだ、と。もう届かないのだ、と。
それから一年。長い別離と劇的な再会は、ほんの僅かな塩辛さと共に封じ込めた恋心に、再び火をつけた。
燃え上がる炎は身を焦がし、星の数ほど呼びかけた名は溜め息に消える。抑えることのできない彼女の我が儘、でも切なる願いを、彼は叶えた。魔法の一夜として。
もう区切りはつけた。
たとえ大神への想いを忘れることができなくても、もうその感情を表には出すまい。そう決めたのだから。それが彼のため。彼に想われる友人のため。そして自分のため。
そこには潔く身を引く自分への陶酔など、そんな感情はなかった。
あるのは、彼と、大切な友人と、同じ想いを共有した少女たちに対する負い目。それは手に入れた思い出の代償であり、彼女の選択でもあった。
あの日、夜が明け切る前にと、まだ外が暗いうちに着物を身に着けながらすみれは言った。
『少尉、ありがとうございました。今日のこと、わたくしは一生忘れませんわ。でも……少尉はお忘れになって』
そして部屋を出る前に、爪先立ちでそっと大神の頬にくちづけをした。
最後の、まじないでもするかのように。
それですべて終わりになるはずだった。
「あっ、お疲れ様でーす」
扉を開けると、赤いベレー帽の女性が手を止め笑いかけてくれた。
書類の束を抱えた長身の女性は、その笑顔にほっと顔を緩める。
「由里たちこそお疲れ様。かすみ、報告書を書いてきたんだけど……」
事務局へとやってきたのはマリア。
手にしているのは三ヶ月間の米国出張の報告書。昨日初めて顔を合わせたかえでは、姉と同じ口調で「ゆっくり休んでからでいいわよ」と言ってくれたが、翌日にこうして提出するとは几帳面なマリアらしい。
昨日は大変な日だった。帰国草々深川に出動し見事窮地を救ったのはいいが、旅の疲れと緊張の糸が緩んだためか、帰投後倒れるように眠ってしまった。
それだけ、ここ大帝国劇場は彼女にとって安心できる場所なのだろう。
「はい、ご苦労様でした」
「それじゃ、お先に」
「……あっ、今から二階に行かれます?」
踵を返そうとしたマリアに、かすみが思い出したように声をかけた。
「ええ、そうだけど?」
「すみませんが、この書類、大神さんに渡してくれませんか? さっきすみれさんに頼んだんですけど、抜け落ちていたんです」
快く引き受けたマリアの横で、由里がくるりとカールさせた毛先を弄びながら話し出した。
「それにしてもすみれさんも変わったわよねー。断られるかと思ったのにあっさり引き受けてくれたものだから、拍子抜けしちゃった」
かすみが苦く笑いながら窘めるのを聞きながら、マリアは事務局を後にした。
階段を登る足取りが軽いのは、きっと気のせいではない。
これは仕事。書類を届けに行くのだから。そう自分を戒めても、頬が緩んでしまうのは仕方のないことだろう。
たった一時の再会。惜しむ間もなく訪れた別離。遠く離れた地で、もどかしさを持て余しながら過ごした三ヶ月。
それも昨日で終わり。再び大神の傍にいることができる。彼の役に立つことができる。それが堪らなく嬉しかった。
花組や帝劇の皆も元気そうでよかった。何より心配していた米田ももうすぐ退院できるという。
帰国直後に戦った黒鬼会と名乗る組織は、目的が不明なだけに不気味ではあったが、仲間たちと、そして大神と一緒ならば怖いことなどなかった。
すべてがよい方向へ向かっている。そんな気さえしていた。
久しぶりに訪れた隊長室。その扉を少しだけ眩しそうに眺めると、用事で来ただけだと慌てて背筋を伸ばす。
何を意識しているのだろう。そんな自分に戸惑いながらノックをしようとすると、中から微かに話し声が聞こえた。
「……この前のこと……」
「……ですから……」
この声は大神と……すみれ?
そういえば先程そんなことを聞いた。どうしようか、また後にした方がいいだろうか。しかし書類一枚の話ではないか。それに早く渡した方がいいだろうし……。
用事で来たとはいえ、大神と二人きりで話せると期待していた疚しさが入室を躊躇わせた。
「……少尉。もうお忘れになってと申しましたでしょう!」
少し怒ったように、すみれが声を荒げた。
立ち聞きなんてするべきではない。扉を叩こうと上げた腕が、大神の声によって止まる。
「……マリアの顔が見られなかったよ。……すみれくん、俺は正直言って自信がない」
(えっ!? ……私?)
「……あれはわたくしの我が儘。少尉が気に病む必要はありませんわ」
「…………」
「…………」
「でも……俺は自分の意志で君を抱いたんだ」
テラスの硝子越しに見える帝都の街並みは、ひどく寂しげだった。
どうしてここにいるのだろう。ぼんやりと外を眺めながら考える。
頼まれた書類は扉の脇に置いてきた。走った記憶はない。何となくここまで来てしまった。
日が長い時期とはいえ、もう午後六時近い。太陽は西に傾きホールを橙色に染め上げ、マリアの金髪を紅く輝かせた。
(……夕陽が見たかったのかしらね)
こつん。
額を窓硝子に押しつける。気怠さを感じるのに、足元がふらふらと危うく思えた。
ふう……。
溜め息を一つ吐く。それだけで自分が空っぽになった気がした。
「あっ、マリア」
びくりと肩が震えてしまった。
今、一番聞きたくない声だった。
階段の手摺りに手をかけた男性は、果たして大神だった。
「な、何でしょうか?」
「あのさ、この訓練予定表、副隊長印が必要なんだ。……明日までに見ておいてもらえるかな」
こちらに近づきながら、紙束を指し示す大神。
彼は何も変わっていない。……いや、どことなく遠慮がちに見えるのは気のせいだろうか。
「…………」
「……マリア?」
「……あっ、すみません! 了解しましたっ」
「……マリア、顔色が悪いぞ。疲れが取れていないんじゃないのかい?」
いつも自分たちを気遣ってくれる優しい人。
でもその顔が翳っているのは、心配のため、それだけなのだろうか?
「具合が悪いなら、今日は早く休んだ方が……」
「隊長」
遮るように呼びかけた。
山の質問の代わりに、大神の瞳をじっと見つめた。
マリアは待った。この不安を治めてくれる言葉を。絶対の安心を与えてくれる態度を。しかし大神は……。
「…………」
不自然に泳いだ視線。
逸らされた漆黒の瞳。
「…………」
いつも痛いほどにまっすぐな眼差しをくれる大神はどこ? 目の前の男から与えられたものは、失意と、疑惑から変化した確信。
歪めていた眉はそのままに、マリアはなぜか困ったように微笑んだ。
ほんの一瞬、だが二人にとっては長い長い沈黙。
遠くで烏の鳴き声が聞こえた。
それが合図だとでもいうように、背を向け、そして駆け出す。
「…………」
大神は追いかけなかった。呼び止めもしなかった。
身体が、まるで動かなかった。
「…………」
「…………」
サロンに立ち込めているのは、気まずいとしか言いようのない沈黙だった。
すみれは慣れた手つきで紅茶を注いでいるものの、その心中は穏やかとは程遠い。
「……どうぞ」
「……ありがとう」
静かに茶器を差し出す。
どうしてこんなことをしているのだろう。
小さく溜め息を吐く。斜向かいに座った女性――マリアに気づかれないように。
「…………」
「…………」
苦い。
すみれは自分で入れた紅茶を、初めてそう感じた。
大方の娘たちが出かけてしまった休日、すみれは一人、午後の紅茶を嗜もうとサロンの扉を開けた。だがそこには先客がいた。言わずもがな、マリアである。
もしかして自分を待っていたのか?
一瞬沸いた考えを消し、何でもないような顔を作ってみせる。彼女への対応は、とりわけ気を遣わなければならない。それは予め覚悟していたことだ。
だからすみれは、普段こういった状況で口にするだろう台詞を言ってしまったのだ。「あらマリアさん、ご一緒にいかが?」と。
マリアは一口つけると茶器を置き、ぼんやりと窓の外を眺めていた。
その白い顔からは、何の表情も読み取れない。
「……ねえ、すみれ」
僅かな間。
「……隊長と、何かあったの?」
「…………」
「…………」
「…………」
沈黙。
外から聞こえる街の喧騒が無性に耳につき、窓から差し込む陽光がいやに黄色く、空々しいと感じられた。
昨日隊長室を出た後、廊下に置かれていた書類。
夕食に出てこなかったマリア。
化粧で隠された目元。
自分と大神を覗い、逃げるように去っていった朝食時。
この人は気づいている。
背中を冷たいものが流れた。手が震えていた。速くなる鼓動を悟られまいと、紅茶を口に含む。ひどく苦い。
「ねえ、すみれ……どうして?」
静かな声。
すみれは眼を合わせることができなかったが、マリアからは微塵の怒気も感じられなかった。
「……最後の、我が儘ですわ」
思わずその言葉を漏らした瞬間、周囲の空気がさっと鋭利になった。
ぶたれる!?
はっと身を硬くしたが何もおきず、恐る恐るマリアに眼を向ける。
彼女は……笑っていた。
ただそれは、あまりに哀しい笑み。眼を細め、唇の端を僅かに上げてはいるが、その表情から感じられるのは哀しみだけだった。
「……そう」
それだけ言うと、マリアは腰を上げ扉へと歩き出す。
すみれは慌てて茶器を置き、立ち上がると声をかけようとした。だが、口を開きかけて止まる。一体何を言えばいいのだろう。
マリアはノブに手をかけると、思い出したように振り返った。
「……そうそう。すみれ、ご馳走様」
「…………」
パタン……。
静かに扉は閉ざされ、サロンは再び静寂に包まれる。苦い紅茶と、立ち尽くした少女を取り残して。
だが次の瞬間、すみれははっと我に返ると駆け出した。
「お待ちになって!」
マリアが怪訝な顔で振り返る。
私室へと向かう廊下を曲がろうとしているところだった。
「何?」
「どういうおつもりですの!?」
「……え?」
「……どうして怒らないんですの!?」
なぜ自分が怒声を上げているのだろう? 筋違いもいいところだ。
しかし、言わずにはいられなかった。
いや、罰が欲しかったわけではない。できれば……ああ、そうだ、決してこんなはずではなかったのだ。
何事もなかったようにマリアと再会するはずだった。魔法の一夜は思い出に姿を変え、もう二度と表に出ることはないはずだった。
だがそれが叶わなかった以上、責任は取らなければ。すべては自分が招いたこと。自分の我が儘が原因なのだから。
罵詈雑言吐かれようとも、憎しみ込めてぶたれようとも、甘んじて受けるつもりだった。
それなのに、なぜこの人は怒らないのだろう?
何も感じていないはずがない。恋人が他の女に寝取られたというのに。
「どうして何も仰らないの!? 罵るなり、引っ叩くなりすればよろしいでしょう!」
取り乱したように声を荒げるすみれに、マリアは困惑を顔に浮かべる。
「……私なんかには、そんな権利ないもの」
ぽつりと吐かれた言葉が染み込み、それを理解した時、すみれは自分の頭にかっと血が昇るのを感じた。
「私なんか」だと? 「権利がない」だと? では大神に好かれている彼女はどうなる? 選ばれなかった自分たちはどうなる?
冗談ではない! 皆が大神を好いていると知りながら、彼と特別な関係になったのは、他ならぬマリアではないか!
(何を今更……)
すみれは知っていた。マリアが花組の面々に、そして大神に対して強い劣等感を持っていることを。
自信家の、いや、決して人には見せない努力を自信に変えるすみれにとって、それは出会った当時から彼女に覚えている反発の原因だった。
マリアは大神に惹かれても、彼女のその思い込みから、何一つ口にせず身を引いていくだろう。
そう考えたすみれの視線には僅かとはいえ、戦いの場にすら上がろうとしない負け犬を見るような侮蔑さえ含まれていた。
それだけに彼女が大神と恋仲になった時には、悔しさと同時に見直したものだ。だからこそ、彼女だったからこそ諦めがついた。
それなのに……!
許せなかった。劣等感は払拭できないのではない。
できるわけがないと決めつけることで、そのための努力を放棄する。だからどこまでも堕ちてゆくのだ。そんなマリアが我慢できなかった。
「マリアさん……あなたが望んでいる言葉を差し上げますわ」
いつもの涼しげな双眸は、今はただ冷たい光を放つ。
「あなたは……少尉に相応しくない!」
走り去ってゆくすみれの足音を、マリアはじっと俯きながら聞いていた。