色褪せし幻想

 湿った風がねっとりと絡みつくように流れる。
 それが運ぶは花の香り。自然のものではない。噎せ返るほどに焚き染められた香で、その空間は満たされていた。

 窓のない部屋で静かに灯る角灯の光が、寄り添う二つの影を照らし出す。
 それは銀髪の男と、亜麻色の髪の女。

「ん……」

 唇が深く重なり合い、背中に回された腕に力がこもる。

 そう、これを求めていた。

 たった一夜の思い出が、この身を苛み、焦がし、滾らせてきた。
 あの時この人が残した種が、今のふたりを結ぶもの。
 だから自分は目覚めた。だからこの人は闇へ堕ちた。

「あやめ……」

 違う。自分は殺女。
 ふたりの仲が孕んだ魔物。
 この人だけを見つめ、この人の隣で愛を歌う女。

 ああ、もっときつく抱き締めて。
 離れていた時間の分まで、強く、強く……。

橘花大戦
色褪せし幻想

-1-

 少女は焦っていた。
 その愛らしい顔は不安に歪み、滲み出る汗が雀斑の残る頬を伝い落ちてゆく。

 蒸気機関の低い唸りと時計の刻む音が、まるで自分を嘲っているようで、堪らなく不快だった。胸の奥がちりちりと焦げ、頭皮を何かが這いずり回る。

 降魔の巣くう聖魔城に突入し、霊子砲を破壊するために出撃していった花組を見送ったまではいい。厳しい大神の顔が自分を見て綻んだ時は、心底嬉しかったものだ。
 だが機動性を重視した翔鯨丸の火力など高が知れているし、帝都各地では飛来した降魔による破壊活動が続けられ、花組を欠いた帝撃では苦戦を強いられている。
 そして何より、先程同僚のかすみが米田に呼ばれていったではないか。

 これはやはり帝撃に配属になって以来、密かに携わってきたある計画が実行に移されようとしているのでは?
 そう、超弩級空中戦艦ミカサ火気管制官としての自分が、ついに必要とされているのだろう。

 気丈な子だ。何度も演習機を用いた訓練を積んできた。しかし、主砲、副砲、千五百を超える高射砲を統べる立場。それは十六歳の少女――高村椿にとっては、あまりにも重い責任だった。

 蒼い制服の裾を掴んで、襲い来る緊張に耐えるその姿は、大人たちの眼にはひどく健気に映っただろう。
 だが彼女は一人だった。孤独と恐怖に思わず熱い滴が零れそうになったその時、作戦室の扉が開いた。

「かすみさん!」

 思わず声が裏返ってしまった。
 今し方入室してきたかすみは、いつもなら柔和に微笑んでくれるであろうその顔を強張らせている。ほっとしたのも束の間、一つの確信が椿の胸を横切り、彼女の顔もまた硬くなる。

「かすみさんっ、花やしきから……!」

 幾許もなく飛び込んできたのは、こんな時でも赤いベレー帽を外さない由里。彼女もまた、かすみの表情に慌てて口を閉ざした。

「二人とも、落ち着いて聞いて」

 静かだがいつになく真剣な口調に、由里も椿も姿勢を正す。
 かすみは瞼を閉じると、まるで託宣でも告げられたかのように言った。

「ついに……ミカサが飛ぶわ」

 やはりそうなのか。なぜか落胆と、新たなる緊張が身体中を走ってゆく。

「すでに市民の避難は始まっている。長官は艦長室へ向かったわ。私たちも至急艦橋へ移動」

 言葉は淡々としているが、かすみの顔が青褪めて見える。一番張り詰めているのは彼女なのかもしれない。椿はふとそう思った。

「そうだ! 花やしきから通信ですっ。隊長が……」

 言い忘れていた由里が発した言葉にはっと眼を開いたかすみは、それが終わるのを待たずに指令室へ走り出す。由里も椿もそれを追う。



「いつ?」
「ついさっきです。呼びに行こうとしたら、ちょうどかすみさんが」

 卓を操作しながら由里が答える。
 その長い指が微かに震えているのを椿は見逃さなかった。それが示す感情とは逆に、彼女は奇妙な安堵を得ていた。
 一緒だ。自分だけではない。かすみも由里も、みんな怖いのだ。
 全長八千メートルを超えるミカサ。気が遠くなりそうな巨大戦艦自体への、さらにはそれを操ることへの恐怖。それを共有できる仲間がいることが救いだった。

 程なく画面が切り替わり、映し出されたのは大柄な男性。
 それは予想通りの人物ではあるが、なぜかのんびりと微笑んでいる。見慣れた表情ではあったが、この緊迫した空気にはどう考えても相応しくない顔だ。

「やあ、かすみくん」
「野分隊長! やあ、じゃありませんっ。今それどころでは……っ」

 かすみが、彼女にしては珍しく苛立った声を上げる。無理もない。この緊急時に一体どういうつもりなのだろう。花やしき支部も発進準備に追われているのではないのか?
 だが当の相手はそれを気にかける風もなく、飄々とした笑みを浮かべたままだ。

 この野分と呼ばれた男。彼こそ輸送空挺部隊風組の隊長、花やしき工房で開発、整備を受け持つ技師であると同時に、翔鯨丸の地上からの管制を取り仕切ってきた男である。また、あやめが銀座本部に異動になってからは、実質的な支部長代理まで熟している。

「まあ、そう怒るなよ。長官から話は聞いているな?」
「ですから!」

 野分はふうっと息を吐くと、一言。

「落ち着け」

 大声でも威圧的でもない、優しく丸め込んでしまうような声。
 かすみははっと口を覆い、気恥ずかしそうに眼を逸らした。

「雪組が召集されてさっき出撃していったよ。こっちは心配いらないさ。夢の連中もよくやってくれている。だから……」

 そこで一旦言葉を切ると、その眼差しに少しだけ悲しそうな色を加える。

「君が長官を支えてやってくれ。花組を信じろ」
「はい……」

 野分は柔らかく眼を細めていたが、急に打って変わって凛々しい顔をして声を張り上げた。

「風組副隊長藤井かすみくんっ、健闘を祈る!」
「は、はいっ!」

 ぴしっと右腕が挙がり、かすみも慌ててそれに倣う。モニターに向かって二人は敬礼を交わした。
 だが次の瞬間、野分は再びにかっと八重歯を見せながら笑う。

「なあに、いつもの訓練と同じさ。由里くんも椿ちゃんも、どーんと自信を持っていけよな」
「……もうっ、隊長ったら」

 由里が笑いながら窘めるのを、かすみも穏やかに眺めている。二人の顔に先程までの焦燥はない。

 確か野分とかすみは帝撃発足以来の付き合いだと言っていたな。椿はそう思い出し、少しだけ羨みながらも、その、人を惹きつけずにはいられない満面の笑みを浮かべながら敬礼を返した。

-2-

 ガシッ……ガシッ……。

 石造りの回廊に機械的な足音が響く。
 所々に灯された松明の灯かりの中を、二機の霊子甲冑が歩いてゆく。それはちょうど対なる色。白と黒の機体だった。
 そう、二機だけ。いつもの色鮮やかな機体の姿は見えない。

 ガシッ……ガシッ……。

 二人はただ黙々と歩く。その口は硬く閉ざされ、足取りも枷を嵌めたように重い。

 幾度もの爆音と、眼に焼きついた閃光。
 思い出したくない。叫びたくなる。だが、一歩一歩踏み出すごとに伸しかかる責任。少女たちが大神に託したもの。

『急ぎましょう、隊長!』

 こうして唯一残ったマリアがその言葉を発した時、大神は耳を疑った。
 彼女がその一見冷めた表情の下で、強く仲間を案じていることを知っていただけに、その言葉はそぐわない、……言ってしまえば失望した。
 彼女は泣きもしなかった。叫びもしなかった。ただ前へと進むことを促すのみ。

 だが、彼女が何も言わなくなった頃、ようやく気がついた。
 泣かなかったのではない、泣けなかったのだと。叫ばなかったのではない、叫べなかったのだと。
 表に出すことができればどれだけ楽か。しかし彼女の立場がそれを許さなかった。任務遂行のためには先を急がなければならない。そう、たとえ仲間の屍を乗り越えてでも。

 しかし、そんな風に割り切ってしまえるほど、彼女は強靭でも冷徹でもなかった。苦楽を共にした友人たちが散ってゆくのを冷ややかに受け入れられるような、そんな人間ではなかった。
 その言外の身を切られるような思いを悟ってやるのが遅れたことを、大神は激しく悔いた。自分の未熟さが許せなかった。

 すまない。すまない。すまない。
 一歩一歩踏み出す脚は、今はもう隣にいない少女たちと、こんな不甲斐ない自分についてきてくれる聖母の名を持つ女性への懺悔。

 花組の中で精神訓練を受けたことがあるのはマリアだけだという。まだ彼女が帝撃に入団する前の話だ。
 以前、米田が悲しそうに笑いながら言っていた。少女たちにそんなことはさせられない、と。無垢な心を決して曇らせたくはない、と。
 それは帝都守護を司る部隊の司令官としては甘い考えだろう。しかし、うら若き少女たちを見守る父としては、果たすべき決断だった。

 悔しかった。副官としてのマリアに助けられながらも、時としてそれは忌むべきことであるとは。
 彼女をいつも辛い立場へ追いやってしまっていることへの後悔。そして、そんな思いをさせてまで自分が為そうとしていることへの疑問が、頭の中をよぎってゆく。

 ……やめよう。最早戻れない。少女たちのためにも戻るわけにはいかない。



 ガシッ。

 足音がやむ。風の泣き声だけが響いてくる。
 二人の前に細かな浮き彫りの施された石の扉が立ち塞がっていた。

「……行くぞ」
「…………」

 ようやく一言発した大神が扉を開く。
 マリアはその重苦しい音を聞きながら、付き従うかのように黙って脚を踏み出す。感傷は、決して口にせずに。





「ようこそ……」
「……!」

 予想通り、……あるいは、予め定められたことだったというのか。果たしてその女性はそこにいた。

 劣情を催させることを目的としたかのような露出の多い服。いや、服と呼べるものなのかもわからなかったが、それは本来の彼女なら決して似合わなかったであろう。しかし今、目の前にいる蠱惑的な女には、この上なく釣り合っているのかもしれない。
 この灰色の羽を生やした女――殺女には。

「よくここまで来たわね。あなたたちともようやく決着がつけられるわ」

 何が面白いのか、殺女はうっすらと笑いながら言う。
 そんな些細な態度にも大神は疲れ、苛立った。

「退いてくれ、あやめさん! 俺たちには果たさなくてはいけない使命があるんだ! 邪魔するなら、たとえあなたでも……」

 そう叫びながらも、彼は自問する。
 使命だと? それは本当に果たすべきことなのか? 本当にこんなことをしてまで遂げる必要があるのか?

「たとえ、私でも……なあに? ふふふ……大神くんに私が倒せて?」
「…………」

 大神の心中を知るかのように、殺女は甘ったるい声で挑発する。大神は何も答えられない。そんな彼に殺女は益々喜色を浮かべる。

「可愛いわよ。いいわ、決着をつけましょう。二人っきりで……ね」
「隊長! 待ってください!」

 マリアの制止に殺女はぴくりと眉を上げ、ふんっと鼻を鳴らした。

「あなたは邪魔よ、マリア」

 そうつまらなそうに言った次の瞬間、かっ、と眼を見開き右手を突き出したかと思うと、突如強烈な衝撃波がマリア機を襲う!

「マリアッ!」
 ガッ! ……プシューッ!!

 一瞬にして壁際まで吹き飛ばされた黒色の神武が崩れる。
 盛大に蒸気を吹き出す機体に駆け寄ろうとした大神を阻むように、伝達管からマリアの声が響く。

「隊長……勝って……。きっと……勝って……ください……」
「……!」

 マリアまでそんなことをいうのか? この手であやめを斬れというのか?
 ぷつりと通信の切れた音が、唖然としている大神の耳を通り抜けていった。

「ちょっと気絶してもらっただけよ。誰にも邪魔はさせないわ。ふふっ、今夜は二人だけの舞踏会ですもの。心地よい血の宴……」

 殺女の声もどこか遠くに聞こえる。
 舞踏会か……。この禍々しい破壊の神機を据えた大翠の広間で、どちらかが倒れるまで死の舞を。

 やがてその機体から淡い光が立ち昇り、急速に目映さを増してゆく。同じように輝く二本の小太刀を天など見えぬ空(くう)に掲げ、そして……。

「うわああぁぁぁっっ!!」

 絶叫と共に振り下ろす。頭の中が真っ白になる……!

色褪せし幻想 中編