ギシ……。
気怠さを抱えながら身を起こす。
荒い吐息。汗ばんだ肌。
本来なら心地よいはずの疲労感。
ギシ……。
組み敷いていた女を見下ろす。
濡れた唇。上気した肌。
だがその瞳は何を映している?
過ちを犯した。
生まれたままのその姿は、僅かに触れただけで崩れてしまいそうなほど、儚い。
いや、崩したのだ。他ならぬ自分が。
罪を犯した。
胸元で鈍く光る、金のロケット。
この中の人に赦されはしない。
女の目尻に、また涙が。
舌先で掬い取る。
塩辛い。
まるで、海水のように。
ふたりが流れついたのは、どこだったのだろうか。
橘花大戦
齎されし答え
喉にひどく渇きを覚えながら、大神はのろのろと衣服を身に着けた。
このまま隣で腕枕でもしてやりながら眠りに就きたかったが、それはあまりにもおこがましく思えた。
ここにいてはいけない。ここに残るのは許されない。
何を言う、それもまた言い訳のくせに。この期に及んでまだ逃げ出そうというのか。
……そうだ。逃げ出すのだ。手折った花に対する責任のすべてを棄てる、最低の者として。
最後にネクタイを締め、部屋を出ようとノブに手をかける。今顔を見たら、絶対に出られなくなってしまう。だから振り返らない。
残念ながら、大神のその決心は無駄に終わる。なんということか、背中に視線を感じてしまったから。
悪戯を見つかった子供のような、ばつの悪い顔で彼は振り返った。
気づかない振りをして出てゆくなんて、できるわけがなかったから。捨て置くなんて、できるわけがなかったから。やはり彼は冷酷になどなれない男だった。
視線の主など一人しかありえない。
その主――マリアは上半身を起こし、毛布を胸元に掻き寄せながら大神を見ていた。
怒るでもなく、泣くでもなく、まして恥じらうわけでもなく、ただ哀しそうな眼で自分を見つめるマリア。
伸しかかる罪悪感。自分は過ちを犯した。大切な存在なのに慰みにした。
傍らに腰かけ、裸の背に腕を回しながら、すまない、と呟いた。
……返事はなかった。抱き締め返してもくれなかった。身体を離せば、やはりただ哀しそうな眼でこちらを見つめるばかり。
決して怒りの視線ではないのに、その眼差しは刺すように痛かった。
そんな眼で見ないでくれ。
罵られたほうがどれだけ楽だろうか。酷い男と詰られたほうが余程マシだ。
これは罰だ。
自分は罪を犯した。それに対する罰なのだ。
マリアは何も口にしなかったが、その眼が訴えていた。
行かないで、と。独りにしないで、と。
子供みたいだな。そう笑おうと上げかけた唇の端。それを許さない彼女の真剣な瞳。
すまない。今度は口にしないで詫びた。
幼子をあやすように、大神はマリアの手を握った。
白い手。滑らかな手。いつもの赤い手袋はない。
溶けるほどに燃え上がった、あの身体の一部とは思えないほど、冷たい手。
ひとりは、いや。こわいゆめを、みてしまうから。
怒りも辛さもなかったけれど、ただ、虚しさがマリアの胸を占めていた。
甘美な余韻はとうに冷め、こんな形で想いを遂げてしまったという空虚な胸の内を風が吹いてゆく。
何を得たというのだろう。
刹那の快楽と引き替えに、何か大切なものを失ってしまった。
わかっていたはずだった。束の間のものと承知で身を委ねたはずだった。
では、この喪失感は?
答えが欲しくて大神を見つめた。自分がどんな顔をしているのかもわからなかったけれど、ただまっすぐに。
そうしなければ、この人はどこかへ行ってしまいそうだったから。
すまない……?
どうして謝るのだろう。そんな言葉はいらない。
傍にいてほしかった。朝まで一緒にいてほしかった。
だって、独りで眠ったら、きっとまた怖い夢を見てしまう!
子供みたいだ、と笑われてもいい。どんな風に扱われても構わない。
だから、お願いだから、独りにしないで。
右手がふっと温かいもので包まれた。
こんな寒い部屋の中でも、変わらぬ温もりを持つ大神の手。
もう片方の手で毛布をかけられ、横たえられた。
「……もう休むんだ。ずっと、こうして手を握っているから」
大神は静かな顔をしている。その痛いまでに優しげな表情は、ある人を思い出させ、マリアはどきりとした。
手を握りながら、毛布を押さえて大神は言った。
「おやすみ」
そして、額にそっとくちづけた。
泣いてしまいそうだった。
その人――ユーリーが最後の夜にしてくれたことと同じだったから。
大神が部屋の灯かりを落とすと同時に、マリアは瞼を閉じた。
今度の眠りは穏やかだった。
明るいわけでもなく、暗いわけでもない、中途半端な明るさがぼんやりと視界に入ってくる。
粉雪の舞った夢の切れ端が脳裏を掠め、マリアは小さく呻いた。決して嫌な夢ではなかったのに、なぜか無性に寂しかった。
夜は明けた。姿を見せたのは神々しい太陽ではなく、鉛色の雲だったが。
身体が怠い。口が乾いて嫌な味がする。
寝返りを打とうとすると、すぐ隣の黒い頭に気がついた。同時に右手を包むものにも。
大神だ。肩と頭だけを寝台に預け、ごつごつとした手でマリアの手を握りながら眠っている。
赤の絶望と夢と、花の香りの過ちと。
流れ込んできた記憶の断片は紗をかけたように朧だったが、大神が最後に見せた弱い笑みだけが、いやに鮮明だった。
(本当にずっと握っていてくれたんですね。でも……それは償い、ですか?)
こんな風にしか考えられないなんて、自分はなんて嫌な女なのだろう。被害者のような顔をして逃げ出そうとしている。流されたのは自分も同じなのに。
身を起こそうとすると胸元の鎖が音を立てた。
昨夜、剥ぐようにガウンを脱がし、このロケットを眼にした大神は、はっと息を呑み、凝視し、瞼を閉じた。
その時間はごく僅かだったが、なぜかとても怖くて、消えてしまいたくなった。彼は何を思っていたのだろうか。
マリアはロケットを握り締めた。それしかできなかった。鎖を引き千切ることも。蓋を開け、中で微笑む人と眼を合わせることも。
大神は目覚める気配がない。規則正しい寝息を立てるその顔。無表情のまま見つめ、それに気づき、慌てて眼を逸らした。
(隊長……私は……安らぎが欲しかったんですよ?)
そう心の中で呟いてから、どうかしている、と首を振る。
大きな大神の手。以前、築地での戦闘後に握ってくれた時と、何も変わらない手。その指をマリアは一本ずつ解いていった。
あの時大神に救われてからというもの、マリアは考えてもみなかったほどの心安らかな日々を送ってきた。
黒之巣会との戦闘は続いていたが、死と隣り合わせの戦場に身を置いても、彼がいれば大丈夫だと、彼のためなら引き金を引けると、そう思っていた。
戦うことの意味をやっと取り戻せたと、義務と贖罪のためだけにここにいた自分はもう存在しないのだと、そう思っていた。
(でも、それもやはり仮初めのもの。私なんかには手に入れられないもの)
最後の一本を解く。
惜しむように、それだけのことに長い時間をかけた。
両手を目の前に翳す。
指の間から砂が零れ落ちてゆく。そんな気がした。
拳を握り、また開き、くっと苦く声を漏らす。
大神と共に正義のために戦えると、本気でそう喜んだのだ。この、血塗られた手を持つ自分が!
そして昨夜のあの月。
自分をここへ導いた人は行ってしまった。あまりにも見すぎた血の、その象徴と共に。
(私を導いてくれたのは……)
自分の肩を抱き締めた。そうしなければ、ばらばらに崩れてしまいそうだったから。
不意に起き上がり、何も身に着けないまま書き物机の上の小瓶を手に取った。
あやめから貰った香水。マリアを苦しませ、大神を惑わした、花の香り。
悪夢も過ちもこれのせいだ。そう逃げてしまえば楽。自分の弱さは棚に上げ、責任を押しつけてしまえばいい。
(だってそうでしょう!? これさえなければっ、これさえなければ……!)
苛立ちに駆られ、小瓶を掴んだ手を振り上げ、遣り切れなさと共に床に叩きつけようとして……やめた。
愚かな行為だと気づいたからだろうか。あるいは……あやめが残したものだったからかもしれない。
(私を導いてくれたのは……)
ふっと顔を上げ、手にしていた瓶を卓上のカップに持ち替える。中程まで満たされた液体は昨夜の残りの珈琲。それを覗き込み、一気に呷った。
苦かった。顔を顰めるほど苦かった。だが、マリアはそれを飲み干した。
軽く咳き込みながら、その眼を拭う。
その涙は、苦さのためだけだったのだろうか。
マリアはきっ、と空(くう)を睨むと、余計な時間などないというかのように、無防備すぎるその身体に衣服を身に着け始めた。
いつものブラウスに、いつものスカート。そして、いつもの黒いコート。
何も変わらぬその出で立ち。
烏の羽よりなおも黒い衣。そして血を意味する赤い手袋。
この装束はきっと死を司る者のそれ。闇を纏う自分には、いっそ似つかわしい!
そう、彼をも誘(いざな)うことになる。破滅へと、永劫なる死へと。
腰に共布のベルトを回し、前できゅっと結ぶ。
真一文字に結んだ唇。
その表情に昨夜の危うさはない。そして温かみもない。ただ冷たいほどに整った、硬い顔があるだけだった。
(だから……だから私は捨てる。弱い心も、甘い感情も)
黒い珈琲は迷わぬために。黒いコートは封じるために。
その決意はかつてのそれと同じだった。
その、熱き生ゆえに、彼女は心を閉ざした。
その、熱き生ゆえに、彼女は冷徹であろうとした。
扉を開け、最後に振り返る。
変わらず眠り続けている大神を見つめる眼差しが、僅かに緩みかけ、だが次の瞬間、再び冷ややかなそれに戻る。
そして、扉は閉ざされた。一人の女の、熱き思いと共に。
「全員集まったようだな」
軍服を着込んだ米田が口を開いた。
蒸気機関と演算機の稼動音が低く唸る、地下作戦室。隣接する指令室では風組の操作員たちが、帝都各地に飛んだ隊員からの連絡を待っている。
「皆に集まってもらったのは他でもない……。恐れていたことが現実のものとなってしまった……」
米田は重々しく語る。
古来より伝えられし予言書、放神記書伝によれば、東京湾に沈められた幻の大地「大和」及びその中心に位置する聖魔城の封印が解かれ、地上を灰塵に帰すといわれる霊子砲が放たれようとしているという。
今朝方から東京湾全域で妖力反応が高まっている。恐らく葵叉丹が聖魔城復活の準備を進めているのだろう。古の祭器、魔神器を以って。
すぐにでも出撃しようというわけにはいかない。妖力の発生源が掴めていないのだ。
叉丹の居場所がわからなくては動くことができない。
直接戦闘要員の少なさ、行動時間の限られる霊子甲冑、残された帝劇の守備。陣容の薄さは帝国華撃団という組織の弱みだ。
「現在、月組夢組と陸海軍が調査に当たっている。花組は劇場内待機。場所が特定でき次第出撃する」
残された者は、今はまだ待つしかない。
米田の話を聴きながら、大神は卓を囲む少女たちを見回した。
私服で集まった彼女たちの、昨夜見せた弱々しい面影は完全にとはいえないが払拭され、一夜明けた今、その顔には血色が戻り、その瞳には意思の光が宿っている。
(強い娘(こ)たちだ……。俺が考えているよりもずっと……)
大神は気づかないのだろうか。彼の存在が、その強さの一因となっていることを。
突如訪れた足元の崩壊の中で、彼が無理をしてでも受け止め、そして与えた思いは、確かに彼女たちに力を与えていた。
マリアは……彼女の顔は髪に隠れ、その表情は覗えない。ただ、きつく結ばれた口元だけが、いやに印象的だった。
(怒っているのだろうか? ……怒っていて当然だよな)
大神が眼を覚ました時には、すでに彼女の姿はなかった。自分にかけられた毛布に彼女の気遣いを感じたが、皮肉なことにそれがなおさら罪悪感を増した。
不自然な格好で眠っていたための、関節の痛みを堪えながらマリアを探しに部屋を出たが、一階に降りたところで米田に捕まり報告に行かなかったことを咎められた。口数少なく頭を下げる大神に何かを感じたのか、米田も多くは問わず、連絡会議だ、と共に作戦室へと向かったのだった。
今思えば、マリアを探し出して何をしようとしていたのだろう。
場内放送で呼び出された花組隊員たちが現れた時も、彼女は決して大神と眼を合わそうとはしなかった。
ひどく胸騒ぎがする。とにかく話をしなければ。何か、取り返しのつかないことになってしまいそうな気がする。
「マリア、待ってくれ!」
会議が終わり早足で歩いてゆくマリアに追いつき、声をかける。だが彼女はこちらを向かない。脚も緩めない。
「何か?」
少し俯いた横顔は金糸の髪に覆われ、薄い唇が紡いだ硬い声音だけを大神に届ける。
それはまるで、出会ったばかりの頃のようだった。
いや、こんなにも頑なな態度を取られたのは、あのマリアが飛び出していった夜だけだったのでは?
昨夜の儚さも艶も、微塵にも感じさせないその物腰。
今ここにいるマリアは、本当につい数時間前に自分の腕の中にいたマリアなのだろうか。
肩に手をかけようとして、そう戸惑い、躊躇した間に彼女は言い放った。
「失礼します」
「あっ……」
射貫かれた。
刹那にして劫なる時間、その眼光に。
深い色の瞳。昨夜見せた縋るようなそれでも、哀しそうなそれでもない、ただ、果てしなく深い色。虚無へと繋がる翠の湖面。
時は止まり、大神の自我は吸い込まれ、そして再び動き出した時には、すでにマリアの姿はなかった。
伸ばしかけた手は空を切った。立ち尽くした男が一人残された。
大神は部屋に入ると、背中と腰で扉を閉めた。そのまま寄りかかり、大きく息を吐く。
書きかけの書類と、灰皿に残された吸い殻が、この部屋の主の帰りを迎えた。
随分と久し振りに戻ってきた気がする。実際には一日と経っていないのだけど。
(どうしたらいいのだろう……)
自分がこうしている間にも、月の間者はその脚で、夢の術者はその霊視の力で魔を追いかけ、風の技師は神武の整備に追われている。
辛いのは、皆同じなのに。
花組隊長である自分が、こんなことでどうする。
そう前を見ようとしても、頭に浮かぶのはマリアのことばかり。彼女の様々な表情が現れては消え、大神は途方に暮れた。
再び溜め息を吐きながら寝台に腰かけ、そのまま横になる。
ギシ……。
思わずどきりとする。
今は朝なのに。ここは自分の部屋なのに。
ギシ……。
見慣れた天井の染み。微かに残る煙草の匂い。
あの、まやかしの術でもかけられたかのような、花の香りのする部屋ではないはずなのに。
寝台の軋む音と纏わりつく湿った空気が、脳裏に呼び起こされる。
ギシッ……ギシッ……。
『ひっ……あ……』
耳障りな音の合間を縫って聞こえるマリアの声。
ギシッ……ギシッ……。
『ん……たいちょ、ひぁっ……』
離れない。まるで、責めるように。
紅く、熱く、マリアに包まれる感覚。
甘く、高く、マリアの鳴き声が響く。
熱く潤んだ瞳。
艶めかしく濡れた唇。
組み合わせていた指が解け、大きく痙攣しながら空を掻き、そして落ちる。
豊かな胸と腰つき。
それを強調するかのように華奢な括れ。
妖しいまでに美しい女の曲線と、仰け反る頤(おとがい)の白さに眼が眩む。
息苦しい。
罪の意識は血を滾らせない。湿った空気に飲まれ、潰され、溺れてしまいそうだ。
寝台の軋む音。露の滴る音。朦朧とするほど濃密な、女の香り。
鮮明でありながら現実味を帯びない光景。
閉ざされた空間。
すべては夢か幻だったかのよう。
だが、背中に残された微かな痛みと爪の痕は語る。
夢ではない。幻ではない。
自分は感情に身を任せ、マリアを抱いたのだと。
今となっては、なぜあんなことをしてしまったのか、自分でもわからない。
無責任なことこの上ない話だが、どうかしていたとしかいえない。
誰よりも誠実でいてやりたい、いてやらねばならないはずなのに、マリアを求めた。マリアを傷つけた。
あろうことか、菖蒲の花を敷き詰めた、背徳の閨で。
後悔ばかりが身を貫く。
赦されたいなんて思わない。思ってはいけない。
彼女を憂えた。
愛想を尽かされたのならいい。嫌われてしまったのなら仕方がない。
だがあの瞳。何も映していないようでもあり、何かとんでもないものを秘めているようでもあり、得体が知れなかった。
彼女は何に捕らわれているのだろう。
時間が捻じ曲がったような、別次元のような夜は明けた。
波間に飲まれ、流れついた先はどこだったのだろうか。
無人の砂浜か、名もなき島か、それとも海底に沈んだか。少なくとも……天上でないことは確かだったが。
コンコン……。
「…………」
返事はない。
コンコン……。
「…………」
やはり、ない。
あるわけないとわかっていながらどこかで期待している自分に、大神は苦く笑った。
鍵はかかっていなかった。閉まる扉の立てる乾いた音を聴きながら、靴を脱いで畳に上がる。ただでさえどんよりと曇った空から障子を通して入る光は僅かで、部屋の中は薄暗い。
なんとなくここへ来てしまった。
何度、ここへ通っただろうか。相談事があると、まず支配人室ではなくここへ来たものだった。扉を開ければ、文机に向かっていた女性が振り返り、あら大神くん、と静かな笑みを浮かべながら迎えてくれるのだ。
今は……迎えてくれる人はいない。微笑んでくれる人はいない。
大神はあやめの部屋の中で、一人佇んでいた。
彼女には世話になってばかりだった。
実に様々なことを教えられ、その言葉には何度も助けられた。
『でも……あの子にも悩みがあるわ。あるいは他の子よりずっと深い……』
そうマリアのことを話してくれたのは、初めてこの部屋に入った時のことだったか。
それは、と聞き返した大神にあやめは続けて言った。
『それは……自分で訊けるようになることね。これは……私からの宿題ってとこかしら』
もう解決したと思っていた。
築地での出来事を経て、自分を隊長と呼んでくれるようになり、柔らかい顔を見せてくれるようになり、少しずつでも他の少女たちと同じように歩いていってくれると思っていたのに。
本当は何も理解していなかったのだろうか。
(宿題はこなしたと思っていたのに……俺は駄目な生徒ですね)
これから、自分に何ができるだろうか。
これ以上、自分に何ができるだろうか。
『この花組は、隊員の皆と、そして大神くん、あなたが支えるの!』
『あなたはもう一人前よ……。もうすぐ、私なんか必要じゃなくなる日が来るわ』
(俺は……まだまだですよ。俺には、まだあなたが……)
駄目だ。弱音を吐いている場合ではないのに。
大神は大きく息を吐くと、柱に寄りかかって脚を投げ出した。
壁にかけられた十字架が眼に入る。
大神は、あやめが激務の合間を縫って教会へ通っていたことを知っていた。
そのあやめが、叉丹に忠誠を誓う魔の者だったというのか。
あやめはその身に変化が起こっていることを感じていたが、一体どこまで知っていたのだろう。
何かあったら自分を撃て、と託された拳銃。彼女は自分が災いを生すものへと変わろうとしているのを自覚していたのか。
それは、なんて悲壮な決意だったのだろう。しかし……。
『大神くん! 私を……私を撃って!』
できなかった。
あやめの命令でも、最後の命令だったとしても。彼女が望んだことでも、それで彼女が救われるとしても。
大神には、少女たちの前で彼女らが慕った人を撃つことなど、できはしなかった。
(でもね、あやめさん。撃てなかった一番の理由は他でもない。撃ちたくなかったんだ)
薄く自嘲の笑みを浮かべる。
(俺は……自分の手であなたの命を奪うことが怖かったんだ)
エゴイズムだとわかっている。臆病者だと詰られても構わない。
(あぁ……叶うことならあなたを取り戻したい……)
あやめと戦うのが怖いからか? 刃を向けることなどできないからか?
……いいや、それは違う。
今ならはっきりと言える。あやめへの思いは、きっと思慕と表すのが最も適していたのだと。
上官として厳しい態度を取りながら、それでいて優しい言葉と気遣いと、確かな道しるべを与えてくれた。時には大神をからかったりもする余裕を見せた彼女。
姉のような存在だった。
郷里の実姉とは違う、もう一人の姉。
自分だけでなく、少女たちだけでなく、きっとこの帝撃の姉。
だからあやめを取り戻したい。
それは紛れもない本音だったが、自分に何ができるのだろうか。
『私の意見を言わせてもらえるなら……大神くん。迷っていては駄目よ!』
(あやめさん……?)
『大切なのは、それがどんな結果に終わったとしても……後悔しないように常に努力し続けることよ……』
(…………)
『……私は、いつもあなたたちの傍にいて、あなたたちを見守っているわ……』
気がつけば頬が濡れていた。
すべてを見透かすような、深い色の瞳。
それは決して不快ではなかった。大いなるものにその身を委ねる感覚。そのようなものだったのかもしれない。
あの灰色の羽を生やした姿が、本当のあやめであるはずがない。自分たちを見守り、導いてくれた彼女が、悪であるはずがない。そうでなければ、今ここにいる自分の否定になってしまう。
なぜなら、やはり道しるべは、道を照らす光は、彼女が与えてくれたのだから。
今はただ、前を向いて走り続けるしかない。信じて戦い続けるしかない。
たとえこの道の行く末にどんなものが待ち受けていようとも、それを確かめもしないで嘆くよりはずっといい。
『しっかりしなさい! 大神くん』
「はいっ!」
ああ、帝撃の守護天使よ。
その慈愛の眼差しを以って彼らを見守り、導きたまえ。
一人の男の、決意のままに。