「嫌! そんなの嫌だもん!!」
青天の霹靂だった。
「ずっといっしょにいるって……ずっとそばにいるって約束したじゃないっ」
食いつかんばかりの勢いで大神のベストを掴む。
隊長からお話があるそうよ。いつもより少しだけ硬い顔でマリアがそう言った時、こんな受け入れ難い事実が少女に予測できただろうか。
「お兄ちゃんのうそつき! うそつき! うそつきっ!!」
大神を詰りながらがむしゃらに振り回す両手は、彼の大きなそれに押し止められた。
「落ち着いてくれ、アイリス」
恨めしいほどにいつもと変わらない、深い漆黒の瞳。それを睨むように見上げる青玉の瞳は、今にも溢れんばかりに涙を溜めている。
口を開きかけた大神を遮るように、甲高い悲鳴が上がる。
「フランスに行っちゃうなんて嫌ああぁぁぁっっ!!」
アイリスは駆け出した。その腕もその言葉も、すべてを拒絶して。
明るい、でも眩しすぎない柔らかな光。空も風も花も、すべてが輝く日溜まり。繋いだ手と手。温かな掌。
笑っている。彼も、自分も、笑っている。
「ずっと、ずっといっしょだよね。お兄ちゃん……」
笑っている。皆、皆、笑っている……。
「…………」
光の白に包まれた視界が次に捉えたのは、見慣れた寝台の天蓋だった。部屋を支配するは夜の闇。陽光も、掌も、微笑みも、温かいものは何もなかった。
「嫌だもん……アイリス、嫌だもん……」
甦る硬い顔、硬い口調。フランスへ留学することになった。信じられない、信じたくない言葉。
遠くへ行ってしまう。届かないところへ行ってしまう。今の今まで、幻とはいえこの手を握っていてくれたのに。無情な事実を浮かび上がらせる日溜まりの夢さえ、そう恨めしく思えてならなかった。
「やだよ、やだよ、やだよ……」
再び顔を埋(うず)めた湿った枕から、嗚咽と共に呟きが漏れる。口にすればするほど、事実は重く鋭く研がれてゆく。声に出せば出すほど、その爪に深く抉られる。
約束してくれたではないか。ずっと傍にいると、寂しい思いなんてさせないと。大神がいてくれたからこそ、人恋しい夜も乗り越えることができた。震えが来る戦場にも立つことができた。彼と共にようやく取り戻した平和。それなのに……。
「やだよ……。どこにも行っちゃ嫌だよ……」
胸の痛みにアイリスは泣き続けた。
どれくらいそうしていただろうか。腫れた目元を擦りながら身を起こすと、すでに日付けは変わっていた。カーテンの空いたままの窓辺に立てば、薄い雲に覆われた月がぼんやりと見える。
確かレニが帝劇に来た日だったか。小さなことから癇癪を起こし逃げ込んだ屋根裏で、同じように月を見上げたことがあった。悔しさと寂しさを持て余しながら、どこかで大神を待っていた夜。果たして彼は現れ、不安のすべてを取り払ってくれた。
(お兄ちゃんがいてくれるから大丈夫なのに……)
だから、大神がいなくては駄目なのだ。そんな思いが浮かんで、アイリスは唇を噛んで俯く。そんなことでどうする。どんなに喚いたところで、彼は行ってしまうのだ。安心して渡仏できるよう、笑顔で送り出さなければ。
辛い顔なんてしてはいけない。自分は大人なのだから。彼のために大人になるのだから。ならなくてはいけないのだから。でも……。
突然、アイリスは脅えたように顔を上げた。見上げる変わらぬ月。だが、その光はひどく不安げに見えた。すっと心のどこかが醒めた気がした。
……でも、こんな日のために、大人になりたかったわけではないのに。
もっと背が高くなりたかった。腕を組んで歩けるように。爪先立ちでキスができるように。
もっと綺麗になりたかった。似合いだと認められるように。彼の心を惹きつけられるように。
もっと聡くなりたかった。愛を語り合えるように。彼を誰よりも深く理解できるように。
早く大人になりたかった。彼の隣に立てるように。彼を支えることができるように。それは笑って別れられるようになるためなどでは、決して、決してないのに。
笑顔でさよなら? そんな物わかりの良さなんて欲しくはない。大人になるということが、彼がいなくても平気になることなら……。大人になるということが、彼の傍にいられないことなら……。
(大人になんかなってあげないもん!)
への字に結んだ口。睨むように鋭い眼差し。
さあ、どうやって引き止めようか。どこかへ行ってしまおうか。いなくなったら迎えに来てくれるだろうか。彼がいなくては何をするかわからない、そう脅してみせようか。
でも、それではまるで……。
「…………」
自棄にも似た勢いはどこへやら、急にアイリスは力なく寝台へ腰かけると、膝を抱えて蹲った。
情けない。そんな駄々を捏ねたところで、彼を困らせるだけではないか。大人になんてなってやるものか? そんな考え方そのものが、ひどく子供染みているではないか。
『アイリス、子供じゃないもん』
どこがそうだというのだ? 涙が溢れた。子供なのだ。自分はどうしようもなく子供なのだ。
部屋を見回せば、数え切れないぬいぐるみ、たっぷりと襞を取ったカーテン、甘い色の寝具、フリルを過剰にあしらった服……。すべては幼稚さそのもののよう。
襟元のレースに手をかける。こんなもの、引き千切ってしまいたい。しかし、非力ゆえに叶わず立ち上がると、その苛立ちに任せ手元の大きな枕を投げつける。ぼすっと篭もった音を立て壁にぶつかったそれから、盛大に飛び出す羽、羽、羽……。
薄暗い部屋の中、はらはらと舞う白い羽。髪に、肩に、無数に降ってゆく羽。
雪のようにも見えるそれを映す瞳を瞬きもせず、アイリスは呆然と立ち竦んでいた。
ほつれたレースを、春の風が揺らしてゆく。穏やかな陽光は、何か居心地の悪いものに感じられた。小鳥の歌声は、どこか遠い世界のものに聞こえた。
「…………」
ぼんやりと外を眺めるアイリスの顔には、喜びも悲しみもない。昨日までと変わらないはずの春の景色も、今や彼女の心を躍らせなかった。
無表情のまま部屋の中に視線をやれば、枕の羽が散らばった絨毯。その上には常なら主の腕の中にいる、ぬいぐるみのジャンポールが所在なげに転がっている。少しだけ不憫に思ったものの、抱き上げてやる気力は起きなかった。
翌日になってもアイリスは、部屋から出ようとしなかった。花組の皆が入れ代わり立ち代わり説得に訪れたが、じっと口を噤んでいた。
『今日は海軍省に行ってくるよ。帰ってきたら話をしよう』
そう大神が声をかけた時も、何も返さなかった。
誰にも、特に大神には会いたくなかった。
呆れられているだろう、こんな聞き分けのない自分は。昨日腕を掴んで止めた彼の眼には、僅かでも嫌気の色が浮かんでいなかったか? 仕方のない子だと、そう思われていたのではないか?
そうだ、どうしようもなく子供なのだ。それなのに、背伸びばかりしてきた自分が虚しかった。思い上がっていた自分が恥ずかしかった。
いつだってそうだった。いつも自分のことしか見えなくて、お構いなしに甘えてしまう。それでも彼は許してくれるから、際限なく甘えてしまう。
だから、大神といると大人になれない。「お兄ちゃん」はいつまでも「お兄ちゃん」のまま。彼の前では、自分は永遠に少女のままなのだ。
大神に会ってしまったら、また我が儘を言って困らせるに決まっている。また駄々を捏ねて呆れられるに決まっている。そんな自分を見せなくない。結局遠いところへ行ってしまうのなら、そんな自分を覚えていてほしくない。
無理をして履いてきたハイヒール。その踵は折れてしまった。だから、もう会えない、会わない、会いたくない。でも……。
「……アイリス、いるかい?」
びくりと肩が震えてしまった。控えめなノックと共に聞こえた、恐れていた、でもどこかで望んでいた声。
「…………」
「……約束、守れなくなっちゃってごめんよ」
アイリスは聴いている。そうわかっているのか、大神は一人話し始める。
「…………」
「しばらく寂しい思いをさせてしまうけど、俺はきっと帰ってくる。だから……」
昨日の硬い声ではない、大好きな大神の優しい声。今すぐドアを開けて飛び出したかった。窓の桟にかけた手がじりじりと汗ばむ。でも、それでも……!
……怖いのだ。だって彼の前では、望む自分でいられなくなってしまう!
「……っ」
「……ごめん。また来るよ」
(やだ! お兄ちゃんに会いたいっ!!)
そう思うより早く、アイリスは駆け出していた。
軍服姿の白い背中。振り返る驚いた顔。
体当たりするようにドアを開け、勢いよく飛び出した脚が一瞬竦む。自分がまた勝手を言うのではないかと、構えられはしないだろうか。
「アイリス……」
大神はほっとしたように破顔する。いつもと同じ穏やかな笑顔に枷は吹き飛び、アイリスを彼のもとへと駆け寄らせた。
叶うなら背中に腕を回して抱き締めたかった。でも、それには自分の背は低すぎて、自分の腕は短すぎて。だから、大神の上着の裾を掴んだ。
「アイリス、お兄ちゃんの前では泣かないからっ。アイリス、きっと大人になるからっ」
ぎゅっと握った小さな拳。長身の青年を見上げる円らな瞳。アイリスは堰を切ったように叫ぶ。
「だからっ、だから忘れちゃ嫌だよ! アイリスのこと、嫌いにならないでっ!!」
堪らず大神の脚にしがみついた。彼はその腕を優しく解くと、屈んで目線を合わせる。
「……アイリスは、アイリスだよ」
ゆっくりと話しながら、大神はアイリスと両手を繋いだ。その温もりに、焦燥に強張っていた顔が解れてゆく。ああ、どうしてこの人は、これほどまで安心をくれるのだろう。
「子供だとか大人だとか、そういうことじゃない。君はそのままでいいんだ」
「お兄ちゃん……」
「さっきの続きだけど、俺はきっと帰ってくる。……だからその時まで、アイリスはアイリスでいてくれないか?」
温かな大神の手。自分の両手をすっぽりと包むその大きさは、ほんの少しだけ苦い、でも限りない安らぎでアイリスの心を満たした。
それでいいのだ。今はまだ、大神の前では大人になれない。でも、本当の自分になれるのだから。
「……うんっ」
そう蜂蜜色の髪の少女は頷くと、満面の笑みを浮かべてみせた。
-了-