太正十五年一月。
新年を祝う人々の賑やかな姿、子供たちのはしゃぎ声……。そんな正月の光景は、この帝都にはなかった。
武蔵。
かの男はそう呼んでいた。
禍々しく、厳めしいその物体は、この地と人々の心に暗い影を落としていた。
そして、一人の少女の心もまた……。
びゅっと一際強く風が吹き、艶やかな黒髪を舞い上がらせた。
冬空は寒風に唸り、鉛色の雲は今にも雪が降り出しそうに重く立ち込めている。
しかし、その空を見上げる少女の胸の内を占めるのは、天候への懸念でも、身を包む寒さでもない。
『あの構え……お父様……お父様だわ!!』
『な……何だって!?』
『…………』
『……鬼王! 本当に……本当にそうなのか!? お前は……本当にさくらくんの父親なのか!?』
『…………』
仮面の男は答えなかった。
だがその沈黙は、少女の疑惑を確信へ変え、そして絶望へと陥れた。
一体誰が信じられようか。
その身を捨ててまで魔を封じた父が、義を諭し、強さを教えてくれた父が、まさか敵だったとは。
なぜ、過酷な運命は少女に伸しかかるのか。
魔を狩り、義のために身を捧げることさえ定められた血。
その華奢な肩には重すぎる責を負い、その細い腕には無骨すぎる刃を握る少女に運命は言うのか。父と戦え、と。父を斬れ、と。
「さくらくん……」
少女が振り返る。
その顔に、いつもの生気に満ち溢れた笑顔はない。
「大神さん……」
それでも彼女は笑ってみせた。
不安に押し潰されそうな顔に浮かんだ、寂しげな笑顔。
その健気さに、大神は唇を噛んだ。
「大神さん……あたし、どうすればいいんでしょうか?」
再び答えを探すように空を見上げながら、さくらは大神に問いかけた。
とうとう降り出した雪が、次々と舞い降りてくる。
いや、自分でもわかっているのだ。父と倒すしかない、と。そうしなければ帝都に平和が訪れることはない、と。
斬るしかない。この手で、この剣で、敬愛する父を。
(でも……!)
思わずぎゅっと眼を閉じたさくらに、大神の声が届いた。
「……さくらくん。お父さんの……真宮寺大佐の心を取り戻そう!」
「……えっ!?」
思わぬ言葉に振り返る。
「真宮寺大佐は反魂の術で命を与えられ、鬼王として京極に操られているんだ。京極の呪縛が解ければ……きっと、真宮寺大佐は心を取り戻すはずだ」
「大神さん、それじゃ……」
「ああ! 俺たちは全力で京極を倒せばいいんだ!」
揺るぎのない肯定。絶対の安心を齎す態度。
自分には思いもつかないことだった。
父と刃を交える。受け入れるには重すぎる現実に押し潰されそうになっていた自分には。「お前に人は斬れぬ」その言葉が繰り返されていた自分には。
この人は……いつも道を照らしてくれる。そして自分は……この人がいるから強くなれる。
さくらは大神に向き直ると、しっかりとした口調で言った。
「……大神さん。あたし……父と、戦います」
「!!」
今度は大神が驚く番だった。
「……もし、父の心が京極に勝てたのなら、とうに自由になっていたはずです。しかし、父は今までに何度も鬼王として、あたしたちの前に立ちはだかりました」
さくらの瞳は固い意志を秘め、先程までの不安と迷いはない。
「だから、あたしは父と剣を交えることで……剣で語り合うことで……父の心を……きっと、京極の呪縛から解き放ってみせます」
「さくらくん……」
この娘は……なんて強くなったのだろう。
だがその強さは、その決心は大神が与えたものだ。いや、彼が呼び覚ましたと言った方が正しいか。
「大神さん、ありがとうございます」
父と戦う。その重さに変わりはないが、この人と一緒ならば怖いことなどなかった。
大神によって暗雲を払われ、本来の輝きを取り戻した顔で、さくらは彼を見つめる。それに応えるように、大神は笑ってみせた。
と、その時……。
「ギエエエエ!」
本能的に嫌悪感を促す音が、空(くう)を裂くように響いた。
「…………!?」
「この声は……まさか!?」
そう、そのまさかだ。
古の怨念に突き動かされる亡者をこともあろうに機械化、量産した、悪魔の機械生物――降魔兵器が、急速に大帝国劇場へと向かってきているではないか!
「くそっ……ついに帝劇を襲ってきたか!」
醜悪な容姿と鳴き声に眉を歪めていた大神が、降魔兵器を睨みつけながら言った。
「……さくらくん!」
「……はっ、はい!」
(まさか大神さん、一人で食い止めるなんて言うんじゃ!?)
あれだけの数を相手に二人で立ち向かったところで、限界は見えている。しかし逃げ出しでもしたら、劇場に侵入されてしまう。
となると、さくらを援護要請に向かわせるのだろう。己は数多の牙に向き合いながら。
この状況下では的確な判断なのかもしれない。相手を信頼するからこそだろう。
それに応えなければならない……いや、応えたい。しかし、同時に彼を責めている自分がいることにさくらは戸惑った。
一時とはいえ、大切な人を置き去りにしなければならない自分の気持ちを考えてくれない、と。それは我が儘と甘えであると、心の中で謝りながら。
大神がこちらに向き直る。
見つめる漆黒の瞳は真剣そのもの。些かの迷いもない鋼のようなそれに吸い込まれそうになるのを、さくらは必死に耐えた。
この一瞬だけは耳障りな降魔の鳴き声が止まった気がした。
伸しかかる確信。胸が痛い。それでも応えよう。それが彼に報いることのできる選択だ。
挑むように表情を改め、そう覚悟を決めたさくらに大神は言った。
「……タライを落とすんだ!」
「……はあっ!?」
その後月組の協力によって空中戦艦ミカサは発進、帝国華撃団は見事勝利と平和を手に入れた。
しかしその戦いにおいて、ヒロインであるはずの真宮寺さくらとの合体攻撃が発動することは、一度もなかったそうである。
-了-