明日紡ぎし絆

 穏やかな陽光。耳をくすぐる鳥のさえずり。爛漫と咲き誇った桜も時期を終え、若葉がちらほらと姿を見せ始めていた。

 帝都は春色たけなわ。
 闇の脅威を退け鋼の鎧を脱いだ少女たちは、その季節さながら伸びやかに青春を謳歌していた。ある者は自己を高め、ある者は趣味に打ち込むその様子は、彼女たちの成長を案ずる周りの大人たちにとっても喜ばしいものだった。

 そして勿論、花組を率いてきた大神と彼を支えてきたマリアにも、麗らかな季節が訪れていた。
 共に背中を守り合ってきたこの一年は二人の信頼をより深めることとなり、他の者も少々遠慮するほど睦まじい仲となっている。

 そうは言っても元々慎み深い二人のこと。マリアの入れた珈琲を傍らに、物静かに語らっていることが大半だった。
 甘い愛の言葉も、危険な恋の刺激も必要ない。ただこうして寄り添っているだけでよかった。互いの存在が何よりも大切だった。

 蜜月の日々。
 小さな息遣いも、微かな体臭も感じられるほど近くにいる。
 幸福の日々。
 傍にいることが、何よりの幸せだと感じている。

 しかし、そんな安らかで温かい時間は、唐突に終わりを告げた。

橘花大戦
明日紡ぎし絆

-1-

 恐らく、驚いた顔をしているのだろう。まるで他人事のように、大神は自分の表情を考えていた。
 突然の言葉を受け入れられない心とは裏腹に、頭は嫌になるほど冷静に米田の言葉を事実として捉えてゆく。即ち、軍の留学生として渡仏。即ち……別れ。

「大神。新しい世界を見てこい。そして、大きくなってこい」

 三年前、初めてここ、大帝国劇場へ来た日からの出来事が一瞬のうちに駆け巡り、米田への返答を詰まらせた。だが、今自分の斜め後ろで表情を硬くしているであろうマリアの姿が思い浮かび、そして真っ白に消えた時、大神は言った。

「……わかりました」

 後ろで、ひゅっと息を呑む音がした。大神にしか聞こえなかったその音は、大きな後悔と小さな諦めような安息を与え、そんな自分を彼は激しく憎悪した。





 一週間。それが大神に残された時間だった。
 だがその大半は引き継ぎや関係者との挨拶回り、荷物の整理といった渡航の準備に追われ、花組の少女たちと話す時間は満足に与えられなかった。
 それはマリアとて同じ。あの後、別れを惜しんだ大神を逆に励ましさえしたマリア。あれ以来二人きりになる時間も持てず、実は落ち込んでいるのではないかという不安が、手を休めるたびに頭をよぎった。

 しかしマリアは実に気丈だった。
 涙を流す少女たちを元気づけ、顔を曇らせる少女たちを優しく諌めた。その甲斐あってか、沈み込んでいた雰囲気も徐々に回復していった。
 もしマリアがいてくれなかったら……。そう考えると正直言って自信がない。いつまでも頼ってばかりだな。そう苦笑した。

 大丈夫だ。マリアも言っていたではないか。二度と逢えなくなるわけではない、と。小さなしこりは煩雑な日々に埋もれさせ、大神は自分にそう言い聞かせた。

-2-

 何か物音が聞こえたような気がした。

 瞼の裏が赤い。薄く眼を開くと、机の横の灯かりが見える。どうやらうたた寝をしてしまったらしい。
 身を起こし軽く頭を振ったその時、トントンと部屋の扉を叩く音が聞こえた。先程の物音は気のせいではなかったようだ。
 時計を見れば、すでに深夜十二時近いではないか。一体誰だろうと訝りながら、どうぞと答えると、扉が開き長身の女性が姿を見せた。マリアだった。

「どうしたんだ、マリア? ……ああ、見回りなら終わったよ」



 大神が劇場の見回りをするのは、明日を残すのみとなった。それ以降はマリアが担当するのだろう。大神の役目は、彼女が隊長代理という肩書きで引き継ぐことになっている。二年前と同じだ。

 そう、ここ数日の帝劇は二年前とよく似ていた。
 大神の離任、花組の反発、それを取り成す米田とマリア、多忙な大神をあれこれと支えてくれた皆。そして明後日、大神が旅立つ時には、きっと泣き出してしまうアイリスを周りが慰めるに違いない。

 しばらくは寂しさに押し潰されそうになることもあるだろう。だがそれも時間と共に薄れてゆく。勿論忘れたりはしないが、彼のいない生活が当たり前になってゆくはずだ。
 いや、そうならなければいけない。いつ戻れるともわからない人間を縋ってはいけない。



 見回りの確認に来たのかと思ったのだが、どうやら違ったらしい。マリアは何も答えず、俯いたその表情はわからない。
 大神は立ち上がり歩み寄ると、顔を上げさせようとしたが、はっと動きを止めた。行き場なく胸元に寄せられた手が震えている。

「マリア、何かあっ……」

 いきなりだった。
 口にしかけた言葉を言い終わる前に、大神は抱き締められた。突然のことに足元がふらついてしまったが体勢を直すと、自分もマリアの背中に手を回した。

「……どうした?」
「…………」

 髪を撫でながら問いかけても、答えは返ってこない。
 マリアは押し黙ったまま頬を寄せてきた。無精髯がくすぐったいのではないかと思ったが、彼女はそんなことを気にする素振りもなく、頬を擦り合わせ、その身体を押しつけてくる。

「マリア……」
「…………」

 積極的な彼女に戸惑いながら、大神の心はざわめく。どうしたというのだ? こんなことは今まで一度だってなかった。
 伝わってくるのは彼女の温もりと、柔らかな肌と、身体の曲線。いつもと同じ。同じはずだ。

 ……そうだろうか?
 同じだって? そんなはずはない。何かが違う。
 マリアの顔を覗おうとした。その瞳を見て確かめなくては。この言い知れぬ不安のわけを。
 だが彼女がそれを許してくれない。大神の背にきつく腕を回したまま動こうとしない。

 得体の知れない暗雲が急速に膨れ上がる。一体何を思っている?
 強引にこちらを向かせようか。……駄目だ、できない。そんなことをしたら、すべてが崩れてしまいそうな気がした。
 どうしたらいい? 大神は焦れた。胸が掻き毟られるようだ。

 不意にマリアが身体を離した。その微かな安堵はすぐさま崩れ去る。
 張り詰めた表情。こちらを見つめる瞳。まっすぐに、ただまっすぐに。
 だが本当に自分を見ているのか? その果てしなく深い色の奥に何があるのか?

「マリア……」
「…………」

 今度こそ返事があるのではないか。その願いは無情にも、底のない湖のような瞳に吸い込まれ潰えた。
 恐ろしい。そう感じた。何か、取り返しのつかないことが起きようとしている。



 ボォォン……。

 部屋の振り子時計が十二時を告げる。
 一つ目の余韻が消えようとしたその時、固く閉ざされていた唇が開いた。

「お願いです」

 部屋の中でたった一つ灯された黄色い光。それを受けたマリアの瞳が、一瞬きらりと輝く。

「壊れるまで抱いてください」



 ボォォン……。

 向かい合った漆黒と翠の瞳。薄暗い部屋の中で互いの姿だけを映す鏡。
 金縛りにでもあったかのように、大神はマリアに捕らえられ、マリアは大神に捕らえられ、揺らめく自分の姿を見つめ続けた。

 三つ……四つ……五つ……。繰り返される音。低く響くそれは本当に時計の音なのか、大神にはわからなかった。
 七つ……八つ……九つ……。ただその音を除いて動きは止まり、思考も止まり、時の流れさえも凍りついた。

 ボォォン……。

 最後の音が鳴り止む。
 それを待ち構えていたのか、あるいは魔法の解けたシンデレラか。翡翠の瞳がひとたび瞬いたかと思うと、その顔が急速に焦燥へと変わってゆく。

 まるで、仮面が剥がれ落ちてゆくようだった。
 眉が歪み、眼が潤み、ただでさえ白い肌は蒼白とも言えるほど。その視線は、大神の中に何かを見出そうと彷徨い漂う。

「嫌……嫌です……」

 震える手が伸びる。

「隊長……行かないで……」

 縋りつくものを求めて。

「独りに……しないで……」

 自分の身体に届く前に、大神はその手を握ろうとした。しかしそれは……。

「嫌ああぁぁぁっっ!!」

 ――遅すぎた。





「マリア……」

 寝台の背に寄りかかっていた大神が、金糸の髪を梳きながら囁いた。
 顔を上げようとしたマリアをそのまま抱き竦める。剥き出しの白い肩に顔を埋めながら、たった一言。

「……愛してる」

 マリアの瞳が見開かれる。
 初めて、だった。その言葉を告げられたのは。

 震えを抑えることができなかった。
 息吹持つ言葉がマリアの内で弾け、駆け、そしてまた集い、すべてを覆っていった。溢れ出る想いは奔流となって身も心も揺さ振り、熱き滴を生み出してゆく。

 満たされた。
 これ以上、何を望むというのだろう。

「大神さん……」

 高鳴る胸を大神のそれに押しつける。

「……あなたを愛しています」

 それだけでよかった。

 大神の腕が苦しいまでに締めつける。その温もりに包まれて、いつしかマリアは眠りに就いた。
 この時、彼女が知ることはなかった。未だなお存在する、ふたりの間の溝に。

-3-

 柔らかな朝の光。ぬくぬくと温かい布団。軽やかな小鳥のさえずりに眼を覚ます。そして、隣には愛しい恋人の顔。
 幸福の一つの形がそこにはあった。
 だが、大神の表情はどうだろう。眉をひそめ、思い詰めた顔をしているではないか。

 身を起こし、金のロケットのみを身につけたまま、静かな寝息を立てているマリアを見つめる。昨夜の怖いくらいに張り詰めた表情が嘘のようだ。

 寂しい思いをさせてすまないけれど行かなくてはならないんだ。代わりに花組を頼んだよ。いってらっしゃい、お帰りをお待ちしています。そう言ってくれよ。

 何てことだ。そう望むことがマリアを引き裂いたのに。いつもいつも我を押し殺す彼女を憂えてきたのに。
 二年前と同じように、笑って送り出してくれると思っていたなんて、自分はどこまで浅はかだったのか。

 どれだけ傷つければ終わりが来るのだろう。どれだけ後悔に苛まれれば楽になれるのだろう。
 壊れるまで、か……。いっそのこと、本当にマリアを壊してしまえば、もうその顔が曇ることもない。もう二度と悲しませることもない。
 彼女は、不安も恐怖も孤独も思い出さえも、すべて破壊してしまいたかったのだろう。その身体ごと。しかし……。



 淡い金の髪を掻き、マリアの両目を露にした。
 いつもの毅然とした表情は影を潜め、あどけなく、無防備で、少女と呼べるような顔つき。そんな彼女を見つめていると目頭が熱くなってきて、慌てて大神は眼を逸らした。

 だが再び向き直ると、マリアの鼓動を一番近くで聴くことのできる場所に、そっと顔を埋める。
 柔らかく温かな感触と、規則正しく響く音が、今この手の中にある生命(いのち)を確認させる。それは大神が何よりも大切に思った存在そのものだった。

 目覚める気配のないマリアの頬から顎へ、首筋から鎖骨へと指を這わせる。その進行を阻んだ鎖を指に巻きつけ、握り締めた。

『寂しくなった時には……この、ロケットがありますから』

 自分がいるべき場所は、こんな小さな金属の中ではないはずだ。
 大神は起き上がり、手早く衣服を身に着けると、確かな足取りで部屋を出ていった。

-4-

 齢六十五、米田一基の朝は早い。日出と共に床を抜け、乾布摩擦に剣術鍛練を熟した後、支配人室で新聞に眼を通すというのが日課だ。
 脚を卓上に投げ出し新聞紙を目一杯に広げるという、少々行儀の悪い読み方はいつものことなのだが、今朝は支配人室にもう一人の人間がいた。大神である。

「やけに早えじゃねえか。いってえどうしたってんだ」
「……米田中将閣下」

 米田はばさりと新聞紙を伏せ、脚を降ろした。

「なんでえ、いきなり改まって」
「自分が軍属でなくなっても、帝劇に置いてくださいますか?」
「……何だと? おい大神、それはどういうことだ? お前、まさか……」

 大神は挑むように米田を見据え、口を開いた。

「私、大神一郎は、仏蘭西留学の辞令を辞退いたします」
「…………」
「…………」
「……マリアに泣きつかれでもしたのか?」

 大神はきっ、と米田を睨んだが、すぐに眼を伏せ姿勢を正す。

「自分には護るべき人がいます。彼女を置いていくことはできません」
「……思い出せ、大神。俺たちが護るのはこの帝劇や花組だけではない。人々の笑顔と命を護ることこそ……帝国華撃団の使命のはずだ」

 そんなことはわかっている。だが、今はそれも綺麗事にしか聞こえなかった。

「仏蘭西へは行きません。マリアを悲しませてまで行く気はありません!」
「……それであいつが喜ぶと思うのか? 俺たちの戦いに終わりはねえ。これからも、この平和を護っていくために……。
 そして、大神。お前にしかできないことがある」
「ですがっ!」

 大神が身を乗り出そうとしたその時、扉を叩く音が響いた。

「……誰だ?」
「マリアです。よろしいでしょうか」
「!!」
「……入れ」

 訝しげに問うた米田に答えたのは聴き慣れた声。一瞬大神を覗った後の米田の許可に扉は開き、いつもの黒いコートに身を包んだマリアが現れた。
 だがその顔はひどく硬く、無理やり感情を抑え込もうとしているように見えた。大神はそれをどう取ったのか、柔和に微笑んでみせた。

「大丈夫だよ、マリア。俺はずっと傍にいるから」

 しかしマリアはそれには答えず、つかつかと大神のもとまで歩む。そして次の瞬間……。

 パンッ!!

 大神の頬が鳴った。
 これには米田もぎょっと眼を剥き、打たれた大神は痛みも忘れて唖然とマリアを見つめた。

「何が……大丈夫、ですか……」

 強張った表情のまま、マリアが絞り出すように声を出す。

「……酷いですよ、やっと決心できたのに……」

 再び氷の仮面は溶け落ちる。

「どうして……どうして隊長はそうなんですか!? 私はっ……」

 口元を両手で覆っても無駄だ。溢れ出る感情を抑え切れない。

「……隊長の言葉があれば私は生きていけます! なのに……どうして……!!」

 吐き出すように言い放つと、マリアは堪え切れずに大神の胸に飛び込んだ。
 罵り泣き叫ぶその姿は、まるで年端もいかない子供のようで、大神は彼女をただ抱き締めながら、ごめんと呟き続けた。

 思い出は縋るものではない。力として歩いてゆけるもの。
 遠く異国の地で、何が待ち受けているのかはわからない。しかし思い出を詰め込んだ心があるのなら、それを与えてくれたこの場所で生きてゆく皆と通じていられる。そう思えた。

 本当に自分は愚かだった。腹立たしくて、情けなくて、大神はその分腕に力を込めた。



「……うぉっほんっ」

 そんな大神とマリアを引き離したのは、いかにもわざとらしい咳払い。二人は真っ赤になって距離を取る。

「すっ、すみませんっ、支配人!」
「あ~、いいからもう行け! けっ、酒が不味くならあ!」
「あの、支配人。先程の……」

 辞退のことは、と言いかけた大神を待たずに、米田はにやりと人の悪い笑みを浮かべた。

「ああん? へっ、安心しな。お前らのお熱~い抱擁は黙っててやっからよ」
「ちっ、違っ……わなくて……ではなくっ!」

 慌てて否定しようとしたが、どうやら米田も理解した上でからかっているらしい。

「そうそう、大神。花組の連中に会う前に、よぉく顔を冷やしておけよ!」

 頬に真っ赤な紅葉を飾った男と、それをつけた張本人は、ほうほうの体で逃げ出すこととなった。





 今日もまた陽光は惜しみなく降り注いでいた。その日溜まりの中で、大神はそっとマリアの手を取った。

「……ありがとう、マリア」

 彼女は何も言わなかった。ただ静かに微笑んだだけ。頬に残された涙の跡が、何かとても神聖なもののように見えた。

 大神は悟った。彼女はまた一つ、高みに昇ったのだと。もう昨日までの彼女ではないのだと。
 それは胸に身勝手な痛みをほんの少しだけ与えたが、泣きたくなるほど嬉しいことだった。

 だから大神も笑った。
 マリアが焦がれた、眩しく、だがこの上なく優しい笑みで。

 辺りには春の陽射しがきらきらと輝き、祝福するかのように集っていた。

-5-

「大神中尉に、敬礼っ!!」

 今日、大神は旅立つ。そして自分たちもまた旅立つのだ。
 汽笛が響く中、飽くことなく白い軍服姿を見つめながらマリアはそう考えた。



 これは明日へと続く道だ。
 明日は明後日に続き、明後日は明々後日へと続く。そしてまたいつか、再会の日が巡ってくる。
 それは何ヶ月も、何年も、もしかしたら何十年も先のことかもしれない。だが、必ずこの道の向こうに、明日の続きにあるのだ。

 何度朝日が昇ろうともその色が褪せることのないように、この想いも、そして絆も廃れることはない。そう信じられた。
 その力をくれた大神への限りない憧れと、感謝を込めて、マリアは眼を閉じる。

 ――隊長。あなたは、私の誇りです。

-了-