拳銃が青年の手から落ち、ざくりと音を立てて雪に埋もれた。
鬣めいた逆立つ黒髪の青年は、同じく漆黒の瞳で相手を睨みつけていたが、敗北の色に染まったその顔、関節が白くなるほど拳を握り、鉄の味がするほど唇を噛み締めたその姿は、見てはいけないものだと気づき、長身の女性は慌てて眼を逸らした。
龍を模した額飾りと奇妙な和服を身に着けた銀髪の男は、勝ち誇った笑みを浮かべたまま傍らの女を抱き寄せた。濃緑の軍服を着込んだその女は、操り人形のように何の抵抗もなく男に凭れ、そして……。
契りは果たされた。
血を吸った月に羽が舞う。形は降魔のそれではなく、鳥の、いや天使のようではあったが、白ではなく、灰色に汚(けが)れた羽。
妖艶な笑みと嘲笑を残し、彼らは人外の手段で禍々しき闇へと消えた。古の祭器だけではなく、それよりなお尊いものを奪って。
誰もが動けなかった。
誰もが目の前で起こったことを信じられず、信じたいはずもなく、ただ立ち尽くしていた。
赤き、月に、狂わされて。
橘花大戦
手折られし翼
寒々しいこの部屋を、今日ほど恨んだ日はなかった。
とうに冷めてしまった珈琲は、この部屋の主の身体を少しも温めてはくれず、必要最小限の調度は、この部屋に立ち込める重い空気を少しも和らげてはくれなかった。
何もできなかった無力さを、今日もまた恨んだ。
繰り返される消失。またか。諦めのような感覚もあった。だが、そんな風に片づけてしまえるような愛し方を、彼女は常にしなかった。
痛いほどにしんと静まり返った部屋。大帝国劇場二階、ここはマリア・タチバナの私室。
『皆も辛いだろうけどまたいつ降魔が襲ってくるかわからないわ。少し休まなくては……』
悲嘆に暮れた作戦室で隊員を解散させたのは自分。それが役目だから。それが為すべきことだから。どんな思いでそれを熟しているかなんて、誰も気づかないだろうけれど。
すでに日付けは変わった。早く寝なくては差し支えるだろう。
……一体何に? 光なき朝にか? 血に塗れた戦いにか? あの人の姿をした悪魔との対面にか!?
(そんなものっ、そんなものっ!!)
荒い息をふっと止め、きつく瞼を閉じる。
(あやめさんっ!!)
心は千々に乱れ、動悸が治まらない。
日記をつけようと手に取ったペンはまるで走らず、ただがくがくと揺れ、インクを無意味に散らせた。思いは形にならず、言葉にならず、事実を書き留めることを拒んだ。
声なく叫ばれた人物はここにはいない。その女性――藤枝あやめは、その体内に宿した種によって上級降魔『殺女』として目覚めた。封印を解きしは銀髪の男――葵叉丹。
わかってはいるのだ。すべてあの男のせいのなのだと。だが、そう思ったところで失ったという事実は動かず、どんな形であれ裏切られたという事実もまた、動かないのだった。
瞼の裏に羽が舞う。そして思い出す黒髪の青年――大神一郎の姿。彼のあんな顔は初めて見た。彼も、あんな打ち拉がれた顔をする時があるのだ。
それはあの人のためなのだろうか?
不謹慎な考えを慌てて掻き消したが、それが落とした新たな影は消せなかった。
諦めて閉じた帳面をしまおうとした引き出しの奥に、小瓶が眼に留まった。取り出してみたそれは香水。愛用のものではない。ずっと前にあの人から貰ったものだ。
なぜ、こんな時に見つけてしまったのか。
そう偶然を恨みながらも開けた瓶からふわりと放たれた芳香は、贈り主がいつも身に纏わせていたそれ。
(なぜこんな時に……)
マリアは先ほどよりも強く、偶然を恨んだ。
だが、その香りは小さな救いのようにも感じられないか?
哀傷の海の直中で見つけた、薄い板切れのような。
直に腐り、沈んでゆく、仮初めのものであったとしても、今だけはあの人が残した救いに縋りたかった。
潜り込んだシーツは冷たく、あの人の温もりは望むべくもないが、耳朶(じだ)につけた花の香りに、優しき面影に、マリアは酔った。
そして、その麻薬のような安らぎに包まれて、眠りの淵へと堕ちていった。
赤き、月に、狂わされて。
(俺はあやめさんが好きだったのだろうか?)
テラスの硝子越しに外を眺めながら大神は自問した。
夜空には粉雪が舞い続け、ホールは凍りつくほどに寒かったが、彼は動こうとはしなかった。いや、今、この劇場内で寒さを感じない場所はないだろう。食堂もサロンも書庫も。いくら薪を焚こうとも無理な話なのだ。凍てつく吹雪よりなお冷たき、一つの事実によって。
(尊敬していただけじゃないのか? 愛していたというのか?)
一人の少女に投げかけられた疑問を繰り返す。彼は、わからない、と答えた。他意はない。本当にわからなかったのだから。
器量も才能も性格も、文句の付け所がない人だった。憧れないわけがなかった。銀座本部でも花やしき支部でも、熱い視線を注ぐ男性隊員は腐るほどいた。本気で結婚を申し込む者もいたが、高嶺の花。そう言って諦めてゆく者が大半だった。
自分もそうだったのだろうか? 手が届かないからと、どこか思いを誤魔化していたのだろうか?
どちらにせよ、と彼は思考を切り替えた。
今考えることではない。失ったものが戻るわけではない。情況が好転するわけではない。
強がり、苛立ち、劣等感、孤独、健気さ。
少女たちが見せた姿はどれもこれも、痛かった。受け止めてやることに多大なる精神力を要した。
彼は疲れていた。だからこんなことを考えてしまうのだと、半ば強引に自分を納得させた。
最後の一人の様子を見なければと、大神はやっとその場を離れた。
無意識のうちに避けていたのかもしれない。疲れた顔は見せたくないから。沈んだ顔は見たくないから。
逃げていた言い訳を心の中でしながら、重い足取りで彼女の部屋へ向かった。
走り続けた常闇の道。
失っても止まれなかった追いかけし背中。
疲れ果てた脚に気づき座り込んでも来なかった朝。
差し伸べられた手。
振り払っても何度でも伸ばされた手。
やっと重ねた手。
あの人に与えられしは場所。そして出会った白き鳥の男性(ひと)。
彼に与えられしは光差す空。
黒鳥は、その翼を羽ばたかせた。
暗転。
空を覆う闇。手折られた翼。
鳥は堕ちた。
赤を映す波間へと。冷酷なる海へと。
――それを与えたのが、あの差し伸べられた手だったとは!!
大切な人なのに! 救い出してくれた人なのに! 共に戦ってきた人なのに!!
「嫌あああぁぁぁっっっ!!!」
ノックをしようとした手は、裂かれるような悲鳴によって止まった。
「マリア? マリア!?」
他の隊員を起こさぬほどに、彼女には聞こえるほどに、大神は扉を叩きながら呼びかける。
「…………隊長?」
ややあって、中から返事があった。怯えるような、か細く震えた声。すぐにでも扉を抉じ開けたい衝動を押し止め、声をかける。
「俺だ。開けてくれないか?」
「…………」
女性の部屋を訪問するに相応しくない時間だとは承知だ。だが、そうせずにはいられないではないか。
衣擦れの音を聴きながら扉の前で待つ時間が、焦がれるほどに長く感じられた。微かに聞こえたマリアの声は、危うく、不確かで、堪らなく不安に駆られた。
やがてノブが回り扉は開いた。待ち望んだ瞬間は、できれば来てほしくない予感の的中の瞬間でもあった。
窶れた顔。べっとりと額に張りついた髪。虚ろな瞳。
白いガウンを着た彼女は憔悴という言葉を顔に書き、消え入りそうなほど凍えていた。
後悔。
なぜ、もっと早く来てやらなかったのだろう!?
彼女はいつぞやのように非礼を指摘するわけでもなく、黙って大神を迎えた。後ろ手に扉を閉めるや否や、口にしようとした言葉。しかし、それは阻まれた。
背中を向けたその肩が、震えている。
「隊長……」
マリアは掠れた声でそう呟くと、大神の胸へと崩れた。香が見せた悪夢に病んで。大きすぎる事実の毒に耐え兼ねて。
マリアの震えが治まり、その顔が怯えから解放されるまで、大神は寝台に座り、ただじっと待っていた。肩に埋(うず)められた淡い金の頭を、優しく撫でながら。自分の遣る瀬ない思いは、ただじっと押し殺しながら。
香水をつけているのだろうか。漂う芳香が気になって仕方ない。
同じだったから。地下で壊れんばかりに抱き締めた時に薫った、あの花の香りと。
強い抱擁を望んだあの人は、今はもうここにはいない。あの時に感じた不安は、最悪の形となってしまった。
(あやめさん……)
あの時ばかりは、ひどく儚げな気を纏ったあの人を思い浮かべた時、大神の中で二人の雰囲気が重なった。
意外なほど華奢な身体。柔らかな身体。花の香りのする身体。ああそうだ、同じなのだ。
深い色の瞳。陰に陽に与えられた支え。優しさの裡にある厳しさ、厳しさの裡にある優しさ。二人はなんて似ているのだろう。
肩に置いた手に力を込め、マリアの存在を確かめた。彼女はここにいるはずなのに、こんなにも不安に押し潰されそうなのはどうしてなのか。
「隊長……」
ふと顔を上げたマリアに覗き込まれ、大神は愕然とした。
その切なげに歪められた眉。その縋るような眼差し。そして、その翳。
あの時と何が違うというのだ!!
その驚きと共に大神は感じていた、何かが外れてゆくことを。
衝動。
突き動かされるように抱き締めた。はっと息を呑むマリアにくちづけた。無理やり寝台に押し倒した。伸しかかる身体を押し戻そうとする腕を許さなかった。
「待って! 待ってくだ……!」
叫ぶように発せられた言葉は、再び押しつけた唇で封じた。
すべては性急で、強引で、手順を知らぬ子供のようだった。
やめるべきだとも思った。
しかし、今離してしまったら、もう二度と触れられないようで。また失ってしまいそうで。
それは勝手な思い込みかもしれない。雰囲気に流されているだけかもしれない。
それでも逆らえない。この身体を見たい。触れたい。自分のものにしたい。
失わないために? そんなものは詭弁だ。己の欲望を満たすための飾りだ。彼女を傷つけるだけだ。彼女たちを侮辱するだけだ。
それでも止められない。今、止めてしまってはいけないのだ!
逃げているだけだ、大きすぎる事実の毒から……!
(マリア! マリア! マリア!!)
暴れ出しそうな感情を抱えながら、見つめた深い色の瞳。温かな身体と、柔らかな体臭。そして、花の香り。
わかっている。自分はこの瞳の向こうにあの人を見ているのだ。それが失ったものだからなのか、それとも本当に愛していたからなのか、誰にもわからなかった。
見つめる漆黒の瞳。肩を寝台に押しつける逞しい腕。顔も身体も火がついたように熱くなった。
予想していなかったと言えば嘘になる。こんな深夜に若い男女が二人きり。恋仲であろうとなかろうと、何もおきないはずがないのだ。こんな、狂わしき夜には。
「いけません、隊長……」
あの人の面影を重ねているだけなのだから。あの人の温もりを求めているだけなのだから。
……いいえ、わかっている。形ばかりの抵抗は責任を被らぬためなのだと。
逃げたかったのだろう? 重苦しき消失から。
逃げたかったのだろう? 底無しの苦しみから。
ならば同罪。身を委ねるがいい、甘き背徳の快楽へと。
(い、嫌……助けて……!)
母の如き優しい笑みを思い浮かべようとした。必死に糸を手繰り寄せても……駄目だっ、うまくいかない! 焦燥感に駆られた脳裏に浮かぶは、嘲り笑う毒々しき女の顔、そして汚れし羽。
(やめてやめてやめて……っ、もう……っ、もう、嫌よっ!!)
唐突にぶつりと途切れた心像。残されたのは闇と絶望。
ぼろぼろになった心にもう一つの事実が直撃した。
翡翠の瞳が見開かれる。
気づいたのだ。大神の瞳に寂しそうな色が浮かんでいることに。
いつも自分たちを勇気づけ、時に叱咤し、導いてきてくれた大神。その彼が見せる弱い一面。マリアは知らない。大神もまた、彼女のそういった面に驚いたことがあったとは。
その一押しによって彼女は放棄した、逆らうことを。
そして切なげに見つめられ感じていた、何かが外れてゆくことを。
僅かな時でもいい。思い人に抱かれ、泥沼のような思いから解放されるのならば、それでいいではないか。それが明らかに逃避だったとしても。
辿り着いた答えは短絡的で愚かだったが、ひどく安らかでもあった。
「大神さん……」
胸板を押していた手を降ろし、そっと瞼を閉じた。
「マリア……」
いつしかその目尻に現れていた滴を、大神は拭った。そして、唇を重ねた。銀髪の男がしたように。何かを解き放てとばかりに。
耳朶を弄ぶ指が優しければ優しいだけ、マリアの心は痛んだ。
頤(おとがい)を這う舌が甘ければ甘いだけ、マリアの胸は締めつけられた。
これでいいのだ。そう思い込ませ、込み上げる涙は殺し、湧き上がるざわめきを捕らえようとした。
すべて任せてしまえばいいのだ。この人なら忘れさせてくれる。赤の月も、灰色の羽も、黒の哀しみも。
たとえ自分があの人の代わりだったとしても、それでいい。
哀傷の海の中でふたりは抱き締め合った。
共に沈みゆく運命だったとしても、今だけは絡みつく水の冷たさを忘れたかった。
あの人と同じようにきつく回された腕さえも悦びとなり、自分が上げた切ない声がどこか遠くに聞こえた。
そして、大神の温もりに包まれて、快楽の淵へと堕ちていった。
赤き、月に、狂わされて。
-了-