梅雨に入って、帝都は連日の雨模様だった。。
その夜、大神はいつものように夜の見回りをしていた。
地下から1階とひととおり見回りを終えて、2階のテラスにさしかかったときだった。
「あれ、こんな時間に誰かいるのかな?」
人影を見つけてそっとテラスに出てみる。
「マリア。」
振り返ったマリアは少し驚いたようだったが、腕時計で時間を確認して納得したように言った。。
「あ、隊長。見回り…ああ、もうそんな時間なんですね。」
「ああ、どうしたんだ?こんな時間に。」
「すみません。…雨の帝都を眺めていたんです。」
眼下には雨に煙る帝都が幻想的でさえあった。
「しかし、毎日、毎日よく降るなぁ。」
「そうですね…」
マリアは微笑むと再び視線を帝都の町並みに視線を戻した。
「隊長…隊長は雨、お好きですか?」
「うーん…そうだなぁ…」
唐突な質問に大神は少しとまどった。少し考えてからゆっくり
「風情はあると思うんだけどねぇ、どっちかっていうとキライかなぁ。雨の日っていうのは外にも出られなくて退屈だからなぁ…」
「ふふっ…」
大神の答えにマリアは小さく笑った。
「あ、俺の答え変だったかなぁ…」
「いえ、違うんです。隊長らしい答えだと思って。」
そう言いながらもマリアは笑い続けていた。
「マリアはどうなんだい?」
「雨…ですか?」
「ああ。」
「私は好きです。雨音を聞いているとなんだか落ち着くんです。」
「確かに…雨音っていうのは時にはいい子守歌になることがあるな。」
ええ。と微笑んでマリアは続けた。
「私が生まれた日って、雨が降っていたんだそうです。」
「…梅雨時だもんなぁ。」
「隊長。ロシアに梅雨はありませんよ。」
「ああ、そうか。」
「でも、雨だったんですって。母がよく話してくれました。ロシアには梅雨がないはずなのに、まるで日本にいるような気がしてとても落ち着けたって。母は一人で私を産みましたから…祖国・日本から遠く離れた地で、やはり心細かったようです。そんな時にまるで日本の梅雨空の様な雨が降り出したんですって…」
マリアはそっと天を仰いだ。
…………
父、ブリューソフが妻の出産の知らせを受けてキエフに到着したのは、マリアが生まれて3日目の朝のことだった。その日も暖かい雨が降っていた。
須磨の家につくと、親子がいるという寝室に飛び込んだ。
「須磨!」
「あなた…ずいぶんと早く到着されたのですね。」
「ああ、私が父親になったと聞いた同僚達が、仕事を変わってくれたので、知らせをうけてすぐに列車に飛び乗ったんだよ。」
「まあ…さぁ、私たちの娘の顔を見てあげてくださいな。この子もとうさまに会いたかったでしょうから。」
須磨は穏やかな微笑みをうかべるととなりのゆりかごへ目をやった。ブリューソフは頷くとゆりかごの中をのぞき込んだ。
「おお、なんて可愛いんだ…これが私たちの娘…」
娘をひとしきり眺めると今度は須磨の傍らに座り堅くその手を握った。
「ありがとう。須磨…すまなかった…心細かっただろう?慣れぬ土地で一人で子供を産んで。本当にありがとう。」
「いいえ。私は一人ではありませんでしたから。」
「一人ではなかった?」
「ええ。この子が生まれそうな時、一人でどうしたらいいのかと不安に襲われました。…でも、その時雨が…」
「雨?」
「ええ。日本では6月は梅雨といって毎日のように暖かい雨が降るんです。」
「そういえば今日も雨が降っていたよ。」
「ええ。ちょうどこんな暖かい雨…この雨音を聞いていたら私は不思議と落ち着いて、力づけられたような気さえしたんです。」
「そうだったのか…」
「あなた…私、思ったんです。この雨は神の祝福ではないかと。祖国を離れた私に神が祝福を授けてくださったのではないかと。」
「そうかもしれないなぁ…それなら、この子は神の祝福を受けた娘だね。」
「ええ。」
「そうか……そうだ、この子の名前が決まったぞ。」
「え?」
「マリアだ。マリアにしよう。」
「マリア…素敵な名前ですね。」
ブリューソフは再びゆりかごの中で静かに寝息を立てる娘に語りかけた。
「マリア…神の祝福を受けた私たちの娘。…幸せになっておくれ。」
…………
「そうか…素敵な話だね。」
「でも、私、洗礼は受けていないんですよ。神に祝福させた子のはずなのに。父はロシア正教、母はカソリックでしたから、結局どちらの洗礼もうけさせられなかったらしいんです。おかしいでしょ?」
「…………」
「でもそれだけではないみたいです。父と母は同じキリスト教徒でありながら宗派が違うということで結婚できなかったので、そういうものに私を縛らせたくなかったということもあったようです。」
「なるほど…難しいんだなぁ…色々と。」
「ええ。あと母はよくこんな話もしてくれました。私たちは父のいるペテルスブルグから離れたキエフで暮らしていたんです。ふたりっきりで。私は昔は疳の強い子で、よく夜泣きをして母を困らせたらしいんですけど、雨が降った夜だけは不思議と夜泣きをしなかったんですって。」
「やっぱり、マリアと雨には何か不思議なつながりがあるのかな。」
「そうかもしれませんね。日本は素敵なところですよね。こんなに豊かな季節があって。私が育ったところには長い冬が終わると短い春と夏が一緒にやってきていつの間にかまた冬になってしまう…そんなところでしたから、はじめて日本に来た頃は毎日が感動でした。母が生まれて育った国はこんなに素敵なところだったんだって。」
「日本が気に入ってくれたわけだね。」
「ええ。不思議ですね…昔は恨んだこともあるんです。私の中に半分流れている日本人の血を。」
「流刑地に送られたからかい?」
「確かに母が日本人でなければ私たち家族が流刑地に送られるようなこともなかった…でもそれは小さなことでした。流刑地でも私たち家族はそれなりに幸せでしたから。はじめて一つ屋根の下で家族3人暮らせたのですから…短い間でしたけど…。」
「マリア…」
「私の中の血を恨んだのは革命軍にいたときです。最初に私を受け入れてくれた人たちはそんなことを気にはしなかったのですが、ペテルスブルグの本隊と合流したとき、私の母が日本人だとわかってそれだけで不当な暴力を受けたこともありました。酔った勢いでなじられたことも…。」
「日露戦争か…」
「ええ。革命軍の中枢には日露戦争に従軍させた経験がある人も多かったようです。その時の私には日本に対する愛国心なんてありませんでしたから…いっそこの身体から日本人の血がなくなってしまったら……そう思ったこともあります。」
「…」
「でも、今は違います。私はこの身体の中に流れている日本の血を誇りに思っています。この美しい国の血を半分でも持っているということを。」
「マリア…」
「隊長、雨があがりましたよ。」
いつの間にか雨はあがり、雲の切れ間から星が瞬いていた。
「本当だ…」
「…隊長、私、雨上がりの町の匂いも好きなんです。辛いこと悲しいことをすべて洗い流してくれたようなこの清々しい空気が。また新しい1歩が踏み出せるような気持ちにさせてくれるんです。もしかしたら、この雨が私の過去を少しずつ洗い流してくれているのかもしれませんね。だから、私はこうやって生きていけるのかもしれない…」
しばらく二人は黙って空を見上げていた。雲はほとんど消えて帝都の空には満点の星空が広がっていた。
「そうだね。」
「明日は久しぶりに晴れそうですね。」
頷いた大神の手が優しくマリアの肩を抱き寄せた。
End