踏歌

「千歌音ちゃん、お姫様よかったねぇ。幸せになれて」
先日のオロチの襲撃のせいでできなかった文化祭の劇。
姫子が、もう一度、読みあわせだけでもとせがんで、最後まで二人で台本をあわせる。
最後の一言が終わると同時に、安心したかのように姫子がため息をついた。
なんだか子供のめでたしめでたしと聞いたときの顔のように見えて、かわいらしい。
「そうね。一休みしてお茶にしましょうか。もうすぐ休むから、カフェインは少ないほう
がいいわね」
千歌音はいつまでも眺めていたい姫子の顔から視線をはずし、乙羽を呼ぶべく呼び鈴を鳴
らした。

「お待たせいたしました。どうぞ」
「ありがとう、乙羽さん。今日はもういいわ、ありがとう」
「ありがとう、乙羽さん。」
今日の千歌音と姫子の夜食兼おやつは、乙羽のお手製のくず餅と京都から取り寄せたこん
ぺいとう。
紅茶党の二人にとっては珍しく、今日のお茶はほうじ茶。
大き目の湯飲みを二人とも両手で持ちながら、芝居の話に戻っている。

「好きな人にあんなこと言われたら、あんなふうにされたら呪いなんて解けちゃうよね」
「…姫子は、なんで姫の呪いが解けたと思う?」
うれしそうに菓子を頬張る姫子を見ながら、千歌音がふと思い出したように問いかけた。
小さな子供だったら、結果だけ知ればよいのかもしれないけれど、今だったらどう思のか
聞いてみたくなったから。
「え?え?王子様が魔女の力よりも、強く姫のことを愛したからじゃないの?」
千歌音の突然の問いに、必死に頭を働かせながら姫子はごく普通の答えをだした。
物語は現実とは違って、めでたしめでたしで終わらないといけないから。
安心して聞いていられるとしか思っていなかったから
「私はね…王子様の愛を受け止められたお姫様が、王子様の隣に立ちたい、一緒にいたい
という願いが、呪いを解く力になったような気がするの」
その答えにきょとんとした姫子だったが、もう一度頭の中で繰り返したらしく、満面の笑
みを浮かべてうなずく。
「そうだよねっ。王子様からだけじゃなくて、お姫様もそう思って、二人で呪いを解くな
んて…千歌音ちゃん凄いっ。私、そんなこと考えたこともなかった」
姫子が言い終わると同時に、遠くから鐘の音がなった。
姫宮邸の柱時計が、二人が寝る時間を告げている。
慌てて二人は残っているお菓子を食べ、こんぺいとうは懐紙に包んで自室に持ち込むこと
にした。

「王子様のキスで、自分に掛けた呪いも解けたらいいのにね…じゃ、おやすみなさい。千
歌音ちゃん」
「おやすみなさい。姫子」
互いにお休みの挨拶をして、姫子は千歌音の部屋のドアを閉める。
部屋を出るときに、千歌音に言った言葉を思い出して、一度、頭を小さく振った。
自分に掛けた呪い。
トラウマとかの類も解けたらいいなと思ったのだが、千歌音のその前の言葉を思い出すと
恥ずかしくて仕方ない。
「誰かに解いてもらうんじゃなくて、自分で解こうと思わないと駄目なんだよね。本当に
王子様の横に立つために」
両手で握りこぶしを作って、頑張らなきゃともう一度閉じた千歌音の部屋のドアに、ドア
の向こうの人から勇気をもらうように、頭をつけてから部屋に戻った。

薄暗い光と生暖かい空気。
黒い太陽と怨念だけが支配するオロチ神宮と呼ばれるその場所に、ミヤコの楽しげな声と、
ネココの悪戯をたくらんだ声が響いた。
「準備はできた?」
「大丈夫にゃーの」
この組み合わせはかなり珍しい。
ミヤコはご褒美とばかり、上機嫌な顔でネココの頭をなでているし、周りにいるほかのオ
ロチたちがあまりの気味悪さにさりげなく距離を開ける。
「あ、姉貴…さっきまで怒ってたよな?」
「なに?まだ懺悔し足りないの?」
「いいえっ、もう十分懺悔しましたっ。そうじゃなくて、その上機嫌なのは何でかなーと
思いまして」
ミヤコの言う懺悔の一言で、ギロチは思わず正座して恐る恐る原因を問う。
その返答はネココの方から返ってきた。

「新しいおクスリにゃのー。ネココとお揃いににゃるのー」
「本当にそのクスリ、効果あんの?」
「あー、コロちん、その眼は信じてないなー?試してみるにゃのー。えいっ」
疑いの目を向けるコロナに、あまり気にしていないかのような口調のネココが、注射器を
突き刺す。
その口調とは反対に、楽しそうな眼で注射器の中身が減っていくのをみて…歯を見せて笑っ
た。
「おわりにゃーのっ」
「痛っ…なにすんのよ!この馬鹿猫!!…ってなに?何、皆見てるのよ」
苦痛の声を上げたコロナの様子を見たオロチ衆の視線が、彼女の姿…こげ茶色のピンとたっ
た耳と、同色のしなやかな尻尾に集まる。
「…猫」
「…確かに猫だな」
「…猫、猫いうなーーっ」
「効果が出たので、じゃ、どっちの巫女を襲うか決めましょうか?」
「ちょ、ちょっとまって、これいつ治るのよ!」
耳と尻尾がいきなり生えた人間を、効果が出たのでという一言でスルーされてはかなわな
い。
あわててコロナが話を切った。
訳のわからない薬で、このままこんな姿になってしまったら、アイドル生命は終わりだ。
運がよかったら……やっぱりそれは考えたくない。
キワモノアイドルなんてコロナの趣味じゃない。
「んー。コロちん、自分のこと好きにゃ?」
「そりゃ好きに決まってるじゃないの。じゃなかったらアイドルなんてやってらないし」
「じゃ、二、三日なのにゃ。よかったね、コロちん」
「…戻らない場合もあるわけ?」
興味がない風にあまり参加していなかったレーコが、突然そんなことを聞いてきた。
きっと漫画のネタにすることを思いついたに違いない。
「自分が嫌いで、治りたいと思わなきゃ、ずっとこのままにゃーの。オロチの呪いはすご
いのにゃ」
「絶対ね。ならいいわ。治らなきゃ後で締め上げるから」
得意気に話すネココの首に手を掛けて、揺するだけ揺すって気がすんだらしい。
コロナが手を離して、ミヤコの話に戻すべく、姿勢を向きなおす。
「…山月記…ね」
レーコがぽつりと言った声は、誰も気がつかずそのまま無視された。

「…話がそれたけれど、もう一度戻すわよ。で、陽の巫女と月の巫女。どっちを襲うのが
よいかしら?」
「はいっ、俺、絶対陽の巫女っ。猫耳に尻尾。ちっこいし、胸ないし、やわらけーし。あー
鎖巻いて散歩してー」
ミヤコの言葉に真っ先に提案したのは、ギロチ。
身体に巻いた鎖を手の中で遊ばせながら、すでに手元にその姿になった陽の巫女を想像し
ているらしく、手近に居たコロナを抱きしめて、頬擦りして…平手打ちを喰らった。
「月の巫女。彼女さえ抑えれば、あとどうでもいい」
「陽の巫女がいいにゃの。膝枕ふかふかにゃの」
「好きなほうにしたらー?」
レーコがこの先のことを考えて提案するのに対して、ネココは自分が膝枕をやってもらう
基準で選ぶ。
さらにすでに被害にあったコロナは、すでにどうでもいい…らしい。
「月の巫女さえ封じれば、後は七ノ首さえ無視すればツバサ様のご意思のとおり……ここ
までまとまりがないと、仕方ないわね。出たとこ勝負で行きましょう。いいわね?」
ミヤコはオロチ衆の参謀らしく計算して…した様に発言した。
が、二人でないとアメノムラクモの封印が解けないとなっている以上、どちらでもよい訳
で。
「それ、作戦いわない…」
「だまりなさい」
「ごめんなさい…」
レーコの突っ込みには、間髪入れずにミヤコが黙らせる。
しかし素直に謝ってきたのは、何故か耳を伏せ、シュンとなったコロナのほう。
いつもより大きなミヤコの咎めの声にびっくりしたのだろう。
こういうところは猫なのかも知れない。
陽の巫女と月の巫女。
どちらかが異形のものになるのかはわからないが、どちらにしても楽しめそうだ。
ミヤコはそう結論付けて実行の機会を狙うべく、鏡を覗き込んだ。
「そうね。明日の誰彼時。場所は…大神神社裏手の山ね」
「えーっ。あたし、この格好で行くの?!」
コロナが大声で抗議したが、別に困るものではないだろうと、他の面々は無視し、思い思
いの暇つぶしに帰っていった。

「姫宮!来栖川を頼む。例の場所で落ち合おう」
ソウマのその声に小さくうなずいて、千歌音はオロチを追ったソウマの後姿を見送った。
二人の気晴らしになればと、カズキが神社の裏手にある山に散策を勧めたのは、数時間前。
紅葉にはまだ早いが、最近休日をすべてアメノムラクモの復活に費やしている二人にとっ
ては、平日とはいえ、久々の穏やかな太陽の日差しを浴びて、息抜きができた。
そんな時間の終わりに、オロチに出会ってしまったのだ。
先ほど視界に入ったオロチたち。なんかいつもと違うコロナとネココ。
その二人がソウマから二人を引き離す囮と気がついたのは、彼の姿が見えなくなってから
すぐのことだった。

「二ノ首…ミヤコに、ギロチにレーコ…」
「私、大神君呼んでくる!」
姫子のその声に、千歌音は行かせたほうが良いのか、とどめたほうが良いのか一瞬迷う。
走れば姫子の脚でも数分かからずに、先行したソウマがいるはずの場所にたどり着けるは
ず。
実際、得物らしきものを持っているのは千歌音のみ。
それに普通の道ではなく、足元が安定せず木が生い茂っているこんな獣道のようなところ
では、弓などは使えず、懐剣に頼るしかない。
自分はどうなっても気にもならないが、姫子を護りきるのは難しいだろう。
「わかったわ。姫子お願い。気をつけてね」
姫子が走り去った後を確認して、その道を護るべくオロチたちの前に立ちふさがった。

3対1では防戦一方で、いつかは力尽きる。
それも相手はまるで千歌音をからかうように、全力ではなく傍からみたら鬼ごっこのよう
なものを楽しんでいる様にも見える。
少し千歌音と切りあって、またもとの場所に戻る。
その繰り返し。

どのくらい時間がたっただろうか?
わずかに聞こえた獣の声にミヤコがふととまり、上を見上げるとにこやかに笑う。
隙を見逃さず切りかかろうとした千歌音の腕を、ギロチの鎖が絡めとり動きを封じる。
「そう、掛かったのは小鳥さん…貴女じゃなくて、残念だったわ。月の巫女様」
からかうようにミヤコが、動けない千歌音の傍に寄り、耳元で囁く。
首筋に感じる吐息に込められた意味を感じて、今までの判断が間違っていたことを知らさ
れた。
それになぜ姫子を逃がしたときに、あの方向だけ誘うかのように開いていたのか。
「まさか、陽動?」
「さて、あっちは終わったようだし、今日はこれで帰りましょうか?」
「そうだな。あー連れていきてー」
「それは今度。月の巫女にも見てもらわないと…だめ」
「じゃあね。月の巫女様」
千歌音の問いも聞かず、オロチたちは、好き放題のことを言い残し闇に溶けた。
「どういうこと?姫子に何が?」
三人が消えた空間を眺めても、何の意味も持たない。
まずは姫子に何が起こっているのか、ソウマには会えなかったのか。
先ほど姫子が向かった方向へ、荷物を持ち直して千歌音は走り出した。

「姫子!どこにいるの?返事をして!」
千歌音が何度呼びかけても、返事が聞こえない。
数分も経たずに、ソウマと落ち合う場所に着く。
すでに待っていたソウマは会ってないというし、姿もないのでまたもとの道を引き返す。
がさりと足元の茂みが動き、白いものが目の前に現れる。
にこやかに、カラの注射器を持ったオロチがいた。
「姫子?」
「遅かったのにゃ、見張り番疲れたのにゃ」
ネココはゆっくり伸びをすると、陰に隠れていた茂みを指差した。
「何日間、足止めできればいいんだもん。でもどうなのかにゃ?戻る気あるのかにゃ?楽
しみにゃーの」
千歌音が投げつけた懐剣を、ネココはダンスを踏むように軽くステップを踏んで躱すと、
虚空に飛び上がり、黒い光に消える。
ネココが指差した茂みを掻き分けると、確かに姫子が倒れていた。

「姫子?姫子!」
千歌音の声が聞こえる。
姫子も返事をしたいのだが、意識がぼんやりとしていて声の聞こえた方に顔を向けるのが
精一杯。
「ごめんなさい…また…貴女を護ってあげられなかった」
千歌音の謝罪する声が聞こえるのと同時に、姫子の身体が抱きしめられる。
なんでもないよと伝えたいのだが、咽喉の奥でくぐもった声がとまる。
眼を開けても、千歌音の服の色しか見えない。
いつもより心地よい千歌音の腕の中の感触。
これはネココから受けた痛みによって、身体が変えられてしまったせいだろうか?

変えられた?なんに?
姫子は、自分が異形の姿に変えられたことを気がついていない。
いつもよりはっきり聞こえる千歌音の心臓の音。
姫子自身、それに気がつく前に、千歌音の腕の暖かさと心臓の鼓動に導かれて眼を閉じた。

にぎやかな音といい匂いで、姫子は眠りから起こされた。
うっすらと眼を開けると、目の前には心配そうな千歌音の顔。
どこか痛くないか、気持ち悪くないか聞いてくるが、そんなことを言われる理由がわから
ない。
ゆっくり身体を起こし、千歌音が手を引いてくれるがままに、ベットの上にちょこんと座
る。
その姿に安心したように、千歌音がいつも以上に頭などを撫でてくれる。
そんなに子ども扱いしないで欲しいと、膨れてみようかと思ったのだが…
どこか泣いているみたいに見えた千歌音の様子に、言うのはやめた。

違うといえば、いつもよりも周りの音がよく聞こえるような気がして、何より部屋の中の
空気の動きまで…千歌音の手の動きだけで部屋の空気が動くのすら感じられる。
その空気の動いた先を眼で追ってみると、千歌音の指が部屋の隅にある姿身を示していた。
そこに映っているのは、姫子の姿。
琥珀色の髪に肩を丸め小さくなっている身体。
特に代わり映えしないいつもの[来栖川 姫子]の姿のはずだった。
「え?なにこれ…」
頭の上のほうに動くもの…これと似たものはよくみる猫の耳。
それに視線を下に向けると、ふらふら不規則に揺れている一つの物体。
「…猫…の耳と尻尾だよね…これ」
言いながら、ふにふにと自分で引っ張ってみる。
とりあえず、痛い。
と、言うことは、これは作り物で千歌音が茶目っ気をだして、着けたものではないだろう。
決して千歌音がそのようなことをしないというわけではないが、それはどちらかというと
乙羽のほうだろう。

「な、何で?」
姫子の顔から血の気が引いた。
苦しそうな千歌音の声が、記憶から引き上げられる。
−−ごめんなさい…貴女を護ってあげられなかった
あの時、何で千歌音が謝るのか理解できなかったが、彼女はあの時自分の姿を見ていたの
だ。
この異形の姿を。
それでそれを姫子には認識させないように、抱きしめてくれたのだ。

「千歌音ちゃん…」
勇気を出して、千歌音のほうをみる。
その視線に気がついた千歌音も姫子をまっすぐに見て、いつもと同じような姫子の大好き
な穏やかな笑顔を返してくれる。
「…千歌音ちゃん、こんな姿なのに、嫌じゃないの?」
「どうして?姫子を嫌がる理由がないもの」
そう即座に返事を返した千歌音の声は、まったく動揺も蔑みも同情の色もなく普段どおり
の声。
「だって、あのオロチの術に掛かって…オロチになっちゃったかもしれないのに?」
「それはないわ…私にはオロチの気配が感じられない。誓ってもいいわ」
「こんな人でも猫でもない…変な姿なんだよ?気持ち悪いよね?」
「どうして?だって、姫子は姫子だもの」
いくら否定的な言葉を姫子が口にしても、千歌音の声音も言葉もまったく変わらない。
あえていつもと違うところを言うのなら、姫子の頭や耳を、眼を細めながらうれしそうに
撫でてくることか。
この間、振り払ってしまった原因の髪の先には触らないように気をつけながら。

姫子もなでられていると、千歌音の手の暖かさについうっとりとしまう。
耳をぺたりと伏せ、眼を閉じてしまいたくなる誘惑に駆られる。
が、先ほどからもう一つ気になっていることを聞いてみる。
「…何で千歌音ちゃん、ずっと頭、撫でてるの?」
その言葉に無意識だったのか、慌てて千歌音が身体を引き、万歳の形にして手を放す。
「あ、あの…その…ふかふかして撫で心地が…」
珍しく、いつも冷静な千歌音の頬に少しだけ朱がはいる。
どうやってごまかそうか思案している顔から、段々肩を小さく丸め、申し訳なさそうに眼
を伏せて、ごめんなさいと小さな声でつぶやいた。

「えーと…」
姫子は自分の耳と尻尾をなでてみて、首をかしげる。
それほど毛並みがいいとか、手触りが良いとかは思えない。
千歌音がいっているのは、ぬいぐるみとかそんなものと一緒じゃないかなと思う。
それに自分ではまだ受け入れられないのに、それを撫で心地がよいとか、褒めてくれて。
受け入れてくれたことの方がうれしくて。
意識して尻尾を振ってみる。尻尾は思い通り動かせる。
ぱたぱたと二回振ってみて、千歌音の手の上にぱたりと置く。
「…尻尾も…なでていいよ…」
予想もしなかっただろう言葉に、千歌音が眼を丸くした。言った姫子もその言葉に顔を赤
らめる。しばらくお互いに黙り込む。
千歌音は手渡された形の姫子の尻尾をゆっくりとなで、姫子はその優しい感触に眼を細め
る。

「あ…このままずっと寝巻きのままじゃいられないよね?学校とかどうしよう?」
ふと姫子はまだ自分がパジャマ寝起きのままだったことに気がついて、尻尾をなでたまま
の千歌音に相談を持ちかけた。
巫女の使命とか…こんなのんびりとしてはいられない。
けれどもこの格好で表に出たら、ちょっとした騒ぎになりかねない。

「今日は土曜日だから…学校は何とかするわ、大丈夫。服の件は乙羽さんにお願いしてい
るから」
「土曜日?私、何日寝てたの?」
千歌音はそれには答えず呼び鈴を鳴らすと、数分後、乙羽が包みを持って部屋を訪れた。
「お嬢様、こちらになります。何かまた足りないものがあれば、お申し付けください」
「ご苦労様、急がせてごめんなさいね…あら?全部乙羽さんが仕立ててくれたの?乙羽さ
んに任せて正解だったわ…本当にありがとう。」
睡眠不足らしく、眼が充血している乙羽が千歌音に包みを渡す。
包みを解いた千歌音が驚いた様子で乙羽に声をかける。
いつも以上に優しく、ねぎらいの気持ちが込められた声に、乙羽もふっと表情をやわらか
くする。
「お嬢様の服では、少々サイズ的に不具合がありましたので、私が簡単ではありますが…」

「ち、千歌音ちゃん?これって?」
「ええ、貴女の服よ。気に入ってくれるといいのだけれど」
姫子はちょっとはしたないと思ったが、包みの中を覗き込むと数着の肌着とスカート等。
「…これ…」
姫子が寝ている間に採寸をしたのだと、当然のように千歌音と乙羽は口にする。
「来栖川様…まことに申し上げにくいのですが…」
「はい…なんでしょうか?」
乙羽が改まっての言葉に、反射的にその場に正座をして次の言葉を待つ。
「先日と比べまして…少々サイズが…」
言葉の裏にある「太られましたか?」というその言葉に、真っ赤になった姫子は布団の中
にもぐりこみ、小さく縮こまる。
千歌音はそんな様子を申し訳なさそうな顔をしながらも、クスリと笑った。

「…姫子、今日は家にいたい?」
「千歌音ちゃんはどこかに出かけるの?」
「ええ…儀式を…やっておこうと思うの」
食事も終わり、食後のお茶を楽しんでいるときに、千歌音がそう姫子に聞いてきた。
儀式…アメノムラクモの封印を解く復活の儀。
今まで二人で何度か行ったが、まだ復活までに到っていない。
「……」
あの儀式は二人でも大変だ。千歌音にいつも負担をかけている姫子はうつむいた。
こんな身体だったら、今度こそ大変なことが起きてしまうのではないだろうか?
「…姫子は、どちらでもいいのよ。私は一人でやってみるから」
「え?無理だよ!二人でも大変なのに…千歌音ちゃん一人だったら!」
姫子の言葉は最後まで続かなかった。
千歌音が真剣な表情で、姫子の唇を人差し指で押さえ、話を止めたから。
「ただの挑戦よ。もしも…もしもよ。私たち二人のうちになにかあったら…一人でも封印
が解ける可能性を探しておかないと……」
その言葉で、千歌音があることを危惧していることを察した。
大神 ソウマが、巫女の側から離れること。
すでにオロチと敵対しているものの、オロチ全員をいっぺんに敵に回して勝てるとは限ら
ない。
それに今回みたいに、引き離されてしまうこともありえる。
もっと最悪の可能性…もある。

姫子の身体がふっと千歌音に引き寄せられた。ぎゅっと抱きしめられる。
「今度は間違えない…失敗しないから…私に何があっても、貴女は絶対護るから…」
その言葉が真実であること、それが彼女の決意であることは、今までのことでも容易に姫
子にもわかる。
けれども、その裏に何かが隠されている。
そんないつもとは違う声に聞こえて、不安になってくる。
先日、二人で入浴した際に、気がついてしまった。
大分薄くなって小さかったけれど、千歌音の身体についたいくつかの内出血の痕。
左腕の傷を初め、彼女自身気がついていないだろう傷跡がいくつもあった。
何度も生身の身体で、オロチの襲撃から身を挺して護ってくれた結果の傷。

「私もついていく。ついていくけど…絶対、無理しちゃだめだよ?約束してくれる?」
「ええ。ちゃんと大神先生に相談して、絶対無理はしないから」
千歌音に無理はさせたくない。
けれども彼女の決意を踏みにじりたくないから、姫子はこういうしかなかった。
ありがとうと千歌音が言い、ゆっくりと姫子の頬に千歌音の頬が摺り寄せられる。
暖かい感触。
なんだか、珍しく今日は千歌音が甘えてくれるような気がする。
いつもより二人の距離が縮まっているようで、不謹慎ながら何故かうれしかった。
「さぁ、それだったら出かける準備をしましょうか?」
「うん」
乙羽が用意してくれた服のうち、どれを着ていくか千歌音の見立てであわせていく。
「姫子、これでよいかしら?ちょっと窮屈でごめんなさい」
「うん。大丈夫。おかしくない?」
「尻尾は大神神社に着いたら出して良いから…ちょっと腰に手を回すわね」
かなり淡いシーグリーンのブラウスに、乙羽の作った青磁色のスカート。
腰の辺りが隠れるように、クリーム色のスカーフを巻く。
後は、耳が目立たないように白い帽子をかぶせて用意ができる。
「可愛いわ。姫子」
「ありがとう、千歌音ちゃん」
「じゃ、行きましょうか」
いつもと変わらず差し出される千歌音の手に、今日は躊躇をせずに手を重ねることができ
る。
今日は後ろとついていくのではなく、きっとすぐ隣を歩けるのもいつもの姿と違うせい。
いつもこうできれば良いのに。何か伝えられれば良いのに。
そう思って握った手をぎゅっと握ってみて、振り返った千歌音に小さく笑いかけた。

 

日差しがやわらかく、そこらをなびく風も心地よい。
草の青い良い薫りが、心までゆったりさせてくれる。

ふわり。たし。
ふわり。たし。
べし。

二方向で、似たような音が上がる。
一つは、ソウマが片手に握った猫じゃらしを振ったのに反応して、姫子が手を伸ばそうと
して空ぶった音と、同時に揺れた尻尾にユキヒトがかまおうとして失敗して地面を叩いた
音。

儀式の間で行われている儀式の緊張感と比べて、外の光景はあまりに平和でのどか過ぎた。
ついでに最後の音は、姫子がバランスを崩し、顔から茣蓙に突っ込んだ音。

「ふぇぇ…」
情けない声を上げて、姫子は自分の顔をこすりながら、茣蓙から身体を起こした。
今すぐ下にあるアメノムラクモが封印されている儀式の間では、千歌音が一人であの過酷
な儀式を行っているのに、自分のこの様子は何だろう?
のんきに日向ぼっこをしながら、遊びに興じている。
こんな格好だから、猫の本能のほうが強いのだろうか?

結局、儀式の間には入らずに、姫子はソウマとユキヒトと三人で、入り口付近に茣蓙を引
いて儀式の終了を待つことになった。
オロチの呪いの可能性がある姫子を結界内に入れることに、カズキが反対したのが一番の
理由。
姫子自身も大神神社は大丈夫だったものの、儀式の間の結界には足を踏み入れることがで
きなかった。
大神神社で待つことも考えたのだが、万が一、オロチの襲撃があった場合、二手に分かれ
ているのは不利だというソウマの意見と、儀式を行う千歌音も姫子が近くにいたほうが儀
式中に何かあった場合に手助けしてもらえるという希望があったので、ここで待つことに
したのだ。

そこまでぼんやり思い出しているときに、姫子の尻尾と耳がぴくりとうごいた。
耳を立て、あたりを伺うと、全身がぞくりとした感覚に包まれる
柔らかい日差しの中に、少しだけ混ざった暗い…妖気。数瞬遅れて何かの足音が聞こえる。
「大神君!」
姫子がソウマを呼んだと同時に指差した方向に、何の疑いも持たず、ソウマが駆け出して
いく。
姫子も一緒に駆け出そうとしたが、儀式の間の入り口のほうに意識を向けた。
かすかに聞こえてくる、疲れ果てているであろう千歌音の読み上げる祝詞の声と、封じら
れた神々の怨嗟の声が、電撃に身を変えて彼女を打ち据えようと迫ってくる音。

身体は儀式の間に拒まれているのに、何故か内部の様子がわかる。
千歌音の所作の一つ一つまで感じ取れる。
「千歌音ちゃん…」
姫子は神域に拒まれないぎりぎりの場所に座り込み、意識を集中する。
ユキヒトが自分の身を護ってくれるように、ソウマが消えた方向に立ちはだかる。
姫子は眼を閉じて、ゆっくりと言葉を紡ぎだした。
以前、簡単な言葉だからと千歌音が教えてくれた祝詞。
少しでも彼女の力になるように、高く低く韻を踏みながら何度も繰り返す。

「ひと、ふた、み、よ、いつ、む、なな、や、ここの、たり
ふるべ ゆらゆらと ふるべ」

こんな異形の身になりはてて、陽の巫女の力があるのかわからない。
が、胸にあてた自分の手が暖かくなるのを感じる。
陽の刻印が力を示しているのだろうか?
どうか、少しでも千歌音の力となりますように。
声だけでも傍にいられますように。
そう願いながら、儀式の間から聞こえてくる祝詞にあわせて姫子も祝詞も変化する。
二人一緒に覚えた祝詞。
アメノムラクモの封印を解く祝詞。
一柱一柱、古の役として、約定を持ってアメノムラクモを、その力を正当な巫女に渡すた
めに神々の名を上げ、その荒ぶる力を助力の力にしてもらうべく希う。
何度か繰り返した後、何かがはぜる音が何度か響く。
その音を、その場にいた誰よりも先に姫子の耳が捉え、そのままその音が示す結果を伝え
ないといけない人に叫んだ。

 

「千歌音ちゃん、危ないっ!」
儀式の間に姫子の声が響いた。
反射的に体ごと振り返った千歌音の身体に衝撃が走り、続いて乾いた音が二つ地面に落ち
る。
その後に一房の髪が地面に落ち、衝撃に耐えられなかった身体がぐらついて膝を着いた。
アメノムラクモを縛り付けている封印の剣の一本が、二つに割れて千歌音を襲ったのだ。
「姫宮君!」
心配して駆け寄るカズキを、千歌音は心配要らないと深呼吸をしてから立ち上がる。
「来栖川さんの声に振り返らなかったら、咽喉を掻き切られていましたね」
首の辺りで途中で切れた髪を持ち上げ、苦笑する。
ここで咽喉を斬られて倒れることになんかなったら、さぞかし使命を与えた神たちはあき
れることだろう。
そもそも封印がそうやって襲い掛かること自体が、何か理由があるのだろうか?
「僕には…声は聞こえなかったが、来栖川君が君を引き寄せたように見えたのだが…」
「え?」
そういえばいつから姫子の声がしていたのか、千歌音はわからなかった。
そもそも姫子は、この儀式の間に入れなかったというのに。
姫子のか細い声では、いるはずのところから声など届くはずがないのに。
いつからか姫子もそこにいて、共に儀式を行っている気になっていたのだ。
儀式の前に感じていた一人で儀式に向かう恐怖から、いつの間にか解放されていた。

「姫宮君、今日はもう無理だ。外が騒がしいのも気になるから、もう終わろう」
「はい…そうします」
千歌音は残る封印を見つめ、こぶしを握り締める。
姫子を護るといいながら、その力のない自分へのもどかしさを感じて、理由を社と封印に
問いかける。
カズキにわからないように、力の入らない身体を壁にもたれかけながら、ゆっくり階段を
上がっていき…上の声が聞こえるところで足が止まった。

「…来栖川、サンキュ助かった」
「ソウマ君!大丈夫?」
「ああ、取り逃がしたけど…あの六ノ首、やっぱり来栖川を狙ってきてたんだな。」
「ソウマ君…ありがとう」
「いや、戦ってるときに、来栖川の声が聞こえてきてさ、元気貰ったんだ」
姫子とソウマの声。
千歌音が儀式の間にいる間に、オロチの襲撃があったのだ。
それをソウマがまた撃退した。
いつものことだが前もって想定できたはずなのに、なんで姫子を大神神社に…少しでも安
全な場所に避難させておかなかったのか。
自分の傍にいて欲しいというわがままで、また危険にさらしてしまった事実に千歌音は自
分の唇をかんだ。
今は外に出て行けない。あの二人を見たくない。

「姫宮君?」
千歌音が急に足を止めたのに不審がったカズキが歩み寄って、顔を覗き込もうとしたのを、少しだ
け笑みを浮かべて心配をかわす。
「外で声が聞こえたので、ちょっと気が抜けてしまいました。すみません」
「後のことはユキヒコ君に頼むから、上に上がったら、休むといい。君はよくやった」
小さく頭を下げて謝意を伝えて、そのまま足元だけ見て上ることにした。
地下のこの場所よりは、お陽様の世界は今の千歌音にはきっとまぶしすぎるはずだから。
彼らの顔を見ずに神社に戻って、休ませてもらおう。

「千歌音ちゃん?大丈夫?」
姫子の声が聞こえたような気がして、千歌音が眼をあけて声のしたほうに顔を向けた。
「私…?」
「疲れてたんだね。すぐ寝ちゃったんだって」
私のこと看病してくれてたもんねと、姫子が毛布の中に手を差し入れて、千歌音の手を
握ってくる。そのあたたかい感触に、千歌音の表情も和らいだ。
あたりはすでに薄暗く、何故か先ほどまで記憶のあった大神神社ではなく自室の風景。
「乙羽さんが迎えに来てくれたんだよ。私も大神先生との話で、今帰ってきたところ」
掛けられた毛布から腕を出してみると、着ていたはずの巫女装束から単衣に着せ替えられ
ていた。
「ごめんなさいね。心配をかけたみたいで……」
「ううん。それよりも大神先生から聞いたよ」
その姫子の言葉に千歌音の胸の中が冷えたような気がする。カズキは何を言ったのだろうか?
それが表情に出たのかわからないが、先ほどより姫子の声が優しくなった。
「一本封印が解けたんだって?すごいね。千歌音ちゃん」
「ええ…姫子がいてくれたから、途中から祝詞をあげてくれていたでしょ?」
その言葉に、姫子がほっとしたような眼をした。
「入り口から離れてたから、声が届くか心配だったんだ。よかったぁ」
「それに剣がとんだ時に、危ないって叫んでくれたでしょ。あれがなかったら…」
その言葉を口にした途端、かすかに姫子の眼が光ったのを、千歌音は気がつかなかった。

「髪が切れてる…」
「そ、それで大神先生の話は?なにかわかったの?」
姫子の手が、途中で切れた髪の一房を持ち上げて、いぶかしむように眼を細めた。
珍しく声音に冷たい物が混ざった気がして、千歌音は髪に触れている姫子の手から逃れる
ようにベットから上体を起こし、あわてて話題を変えようと先ほど話題に出たカズキの話
を持ち出した。
姫子だけに話しても問題ないということなら、多分姿のほうの話だろう。
ネココが打った注射の中身。
仮に何かの薬剤が含まれていたにしても、不可解なことが多すぎる。
そう思って、あの日のうちにカズキにオロチに関係なく伝承なども含めて調査を依頼した。
「もしかしたら、私に問題があるんじゃないかって…」
「どういうこと?」
「戻りたくない何かがあるんじゃないかって。大神君も変な事いってたの。今日襲ってき
たのは六ノ首で、「まだ解けてないんだ。よほど自分のことが嫌いなのかにゃ」って言わ
れたって」

「戻りたくない訳があるの?」
今の話をまとめると、解けてないことに理由があれば、オロチの呪いは姫子の希望。
自分がその原因になっているのではないかと、何か負担をかけているのではないかと不安
になって、千歌音がかけた問いかけに、姫子は一回小さくうなずいて、それから首を横に
振った。
「戻りたくないというか、変わって良かったなと思うことはあったの」
それはどういうことなのか?それを聞こうと言葉を選ぶ前に、姫子の言葉が続く。
「でもね。今は元に戻りたいの」
「え?」
「千歌音ちゃんが、嘘ついてるから」
あ、まただ。
先ほど聞いた姫子の冷たい声音。
いつものお日様のような暖かい声じゃなく、強い光。けれどもその光は冷たくて怖い。
何かを暗いものを暴くための光だ。例えるなら、オロチの太陽。

「さっきから血の匂いがするから気になってたの…」
首に触れようとした姫子の右手から逃げようと、千歌音が首を無意識にそらしたとき、何
かがはがれた僅かな痛みが首に走る。
無意識にその痛みに触れようとして、その手が先ほど止まった姫子の手に掴まれる。
変わりに姫子の左手がそこに触れ、その結果を千歌音の目の前にさらす。
緋の色。
「無理はしないでって、そう言ったよね…」
「違う…これは…っ!」
気がつかなかっただけなのだと言おうとして、言葉がとまる。
湿った音が、千歌音のすぐ傍で鳴ったから。
一瞬、姫子の眼が獣の眼に見えて、押し当てられた生暖かい感触に、咽喉を噛み切られる
かと思って、思わす身体を硬直させる。
けれどもそこを這う舌の感触は優しく、むしろ別の千歌音の感情を掘り起こす。
シーツを思わず握り締めて、その感触から逃れようとするが、吐息が漏れるのが押さえら
れない。
「私がいなくても、千歌音ちゃんは何でもできちゃうから…置いていかれるのは嫌なの…」
そうじゃない。姫子がいるから…姫子があの温かい眼で見てくれるから…
「姫子が…姫子が声を掛けてくれたから…髪の毛とこの傷ですんだの!」
「姫子がいてくれないと…あの場にも居られなかった…儀式なんて…」
千歌音は姫子を引き剥がして、大きなため息をついた。
駄目…姫子が…綺麗な無垢なお姫様が…こんなことをしている。
微かに千歌音の血がついた唇に、視線が止まって離せない。
想像もしてなかったことに動揺して、本当だったら言うはずのない、胸に仕舞って置かな
いといけない自分の弱さをもらしてしまう。
こんなところを見せてしまっては…姫子に頼ってもらえなくなってしまう。

「そうなの?そっか……」
引き剥がされたことで、きょとんとしたような姫子の声が聞こえる。
いつもの姫子の声。その声に安堵する。
姫子は千歌音のその様子を気にすることなく、棚から最近置きっぱなしの救急箱を取って
くる。
「あ、首…手当てしないとね。ちょっと待ってて」
先ほどまでの冷たい声の姫子が今の姿の姫子の本当なのか、この見慣れているはずのお陽
さまのような姫子が本当なのか、うまく千歌音の中では判断できない。
「さっきの私も今の私も本当の私だよ、千歌音ちゃん」
「…姫子?」
「自分を獣だって、普通の人間じゃないって思うことで、自由に言えるのかも」
首元で薬を塗り、ガーゼを当て、軽く包帯でとめる。
姫子の表情は千歌音のほうからは見えなかったが、声はあまりに真剣で、千歌音は一言も
逃さず聞き取ろうと神経をすます。

「千歌音ちゃん。私のこと頼りにしてくれるの?」
「ええ」
「いないと困る?」
「居てくれないと、多分…いえ、私は何もできないわ」
「私のこと…好き?」
「…ええ」
姫子の求めている好きが、友情なのか、愛情なのかどちらかはわからないけれど。
そもそもなんで、そんな質問をしてくるのか千歌音にはわからない。
どんな表情で今のことを聞いたのか身体を心持ち離して、姫子の顔を覗き込もうとしたが、
すっと背のほうに隠れてしまう。
「キスしても、かまわないくらいに?」
「え?姫子?キスって…?」
「千歌音ちゃん…前に言ってたよね。お姫様の呪いが解けた理由って、王子様の愛を受け
止められたお姫様が、王子様の隣に立ちたい、一緒にいたいという願いが、呪いを解く力
になったって」
確かに先日、そんなことを言ったような気がするし、それについて姫子が何かを納得して
いた様な記憶も千歌音にはある。
けれども、先ほどまで隠れるようにしていた姫子が、いつの間にかベットに片膝を着き、
至近距離で眼を潤ませているかが、千歌音には理解できなかった。
誘っているようにも見えて、正視ができない。
「お願い、キスして欲しいの…私…千歌音ちゃんの隣にいたいっ…」
ずるいと千歌音は思ったが、その考えを打ち消すように口元を押さえて頭を振った。
先ほどの首筋に姫子が舌を這わせたのは、開きかけた傷跡の血を舐め取ってくれただけな
のに。
それに反応して官能の色を求めたのは自分のはずなのに、自分だけ高ぶらせておいてとい
う勝手な気持ちが離れない。
それなのに、キスをして欲しいなんて…姫子がそんなことを言い出すなんて。
いつもだったら挨拶程度のキスを贈って終わりにできるのに、こんな状態で自制などでき
る自信がない。

「本と…」
本当の王子様は、大神さんがいいのではないの?
そういいかけたのだが、千歌音には言うことができなかった。
こんな姫子への邪な思いを持っている自分の口付けで呪など解けるはずがない。
自分への嫌悪で、眉をひそめた千歌音に姫子が声を掛ける。
「千歌音ちゃん…やっぱりいいよ。気持ち悪いよね…」
千歌音の胸にすがり付いていた手を離して、身体を離そうとした姫子を許さず、もう一度
軽く背中に手を回す。

こくりと千歌音の咽喉が鳴った。
本当は、触れたくて仕方なかったのだ。
今までだって姫子の意識がないときに、何度触れようとしたかわからない。

「…本当に私でいいの?初めて…でしょ?」
本当は違う。オロチがはじめて襲ってきた日にずるいやり方で口付けた。
でも、姫子は覚えていないだろうから、もう一度確認する。
「千歌音ちゃんだったらいいよ。だって、あの時だって…学園祭の時だって、私のこと見
つけてくれたもん」
「千歌音ちゃんは…何でも見つけてくれたから…大事なものも、宝物も全部…だから…」

もうこれ以上聞いても同じ。もう十分以上に、理由はもらった。
覚悟を決めるしかない。千歌音は姫子の顎に手を掛け、覗き込んで笑いかけた。
姫子のほんの少しだけ身じろぎしたが、眼は逸らされなかった。
「好きよ、姫子」
身構えて固くなってしまっている姫子の背や肩などに、子供をあやすように軽く触れてい
く。
姫子が少しでも、気持ちを落ち着けてくれたらと思う。
「…好き…大好きよ。大好き」

何度も繰り返すその告白に、姫子も笑みを返した。
「千歌音ちゃん…本気に聞こえちゃうよ?」
「そう思ってくれていいわ…どうせ、呪いが解けたら姫子はきっと忘れてしまうもの」
そう返した声に、自嘲と諦めの色が混ざったのに姫子は気がついただろうか?
どうせ姫子にはこの言葉は届かないのだ。
お芝居の台詞にしか聞こえないのだと。
欠片でも言葉に込めた真実に気がついたのなら、世間の常識から決して外れようとしない
怖がりな姫子は逃げてしまうだろうから。
そうして二度と自分には笑顔を見せてくれないだろうから。
気がついて欲しくない。

姫子の唇に唇で軽く触れて、すぐに離して様子を伺った。
半身を起こしてヘッドボードにもたれかかった姿勢では、姫子を抱き込むのはバランスが
悪いが、今さらベットから出て体勢を整えるのも、少し気恥ずかしい。
そのまま姫子の腕を引き、体勢を不安定にさせてもたれかからせる。
「愛しているわ…姫子」
もう一度、今度は先より深く口付ける。
先ほどと違って、目も軽く閉じ身を預けてくれる姫子の様子に、千歌音も安心して少し湿っ
た姫子の唇に人差し指を滑らせながら姫子にねだる。
「口、開いてくれる?」
千歌音のお願いに、顔を紅くしながらも姫子が答えてくれた。
唇を合わせる瞬間に姫子から漏れた吐息の甘さに、いけないと思いつつも酔いはじめる。
情欲を混ぜないよう、優しい気持ちだけ伝えたいのに、自制が効かない。
奥深く舌を差し入れ、口内を優しく撫でてから、姫子の舌に触れて、反応を待った。
おずおずと触れ返して、答えてくれた姫子の舌に優しく絡ませる。
何度か息を継ぎながら、姫子の体の力が抜けるまで、千歌音は姫子を離さなかった。

「千歌音ちゃん…」
やっと口付けから開放された姫子が、上気した声で千歌音の名を呼んだ。
その声で姫子のブラウスのボタンをはずそうと手を掛け、首筋に唇を落とそうとした自分
の姿を認識できた千歌音の動きは止まる。
「あ…」
これ以上はいけない。姫子が許してくれた範囲を超えてしまう。
自分が何をやったかは理解できた。
しかし姫子がそれを理解したかそれがわからなかった。怖くて姫子の顔を見ることができ
ない。
拒否の色を浮かべている姫子の顔を想像しただけで、関係が終わってしまうことをしでか
した自分を軽蔑していることを想像しただけで怖い。
けれども、ここで急に身を離してしまったら、それを余計強調するようで、それもできな
かった。
今のところ制止の声も引き剥がされもしないから、最悪の状態になっていないはず…そう
であることを願う。

「ごめんなさいね…ちょっとだけこのままでいてもらえる?少しだけでいいから…」
姫子の肩口に千歌音は額を乗せ、姫子の身体に刺激を与えないように、できるだけゆっく
りと息を継いだ。
ブラウスのボタンに手を掛けかけた、右手を握りこんで左手で押さえこむ。
元に戻るためとはいえ、姫子から求めてくれただけで、受け入れてくれただけでも満足す
るべきだ。
心の中で呪文のように何度も繰り返して、何とか情欲が表に出ないように心を落ち着かせ
ようとする。

動かなくなった千歌音の背中に手を回して、姫子は満ち足りた気分にさせてくれた口付け
を思い出していた。
合わせられた唇から千歌音の震えが伝わってきて、強要させてしまった罪悪感が浮かんで
きたが、優しく撫でてくれる手や、息をつく為に離される度にささやかれる少しかすれた
告白の声。
優しく姫子を見つめる瞳。
千歌音のその時間は、すべて姫子に捧げられていて。
あれを演技だと思いたくなかった。
あわせられた唇や差し入れられた舌からは、暖かい気持ちだけが流れ込んで、今まで抱え
てきた心の中の嫌なことやトラウマを流し出してくれたような気がする。
どんなに手放そうと思っても、離れなかったものたちが。
どんなに礼を言っても、きっと足りない。

なのに、腕の中の千歌音は動けなくなっているから。
咎める声を待っているかのように、怯えているから。
千歌音の背中に回した手にぎゅっと力を込める。
千歌音から貰った、満ち足りた暖かさをわけてあげたくて。

「ありがとう、千歌音ちゃん。あぃ…」
姫子の愛しているよと言う言葉は、千歌音に最後まで伝えられただろうか?
お姫様が王子様に言った芝居の言葉ではなく、自然に伝えたくなった言葉。
早く元に戻って、千歌音の隣に立ちたかった。
元に戻れなくても、自分にできることで彼女に喜んで欲しかった。
思っていること、言いたいこと一杯あるのに。
段々体が重くなってきて、まぶたも重くなってくる。
千歌音の言うとおり、次に眼が覚めたとき、今のことを忘れてしまっても。
「おやすみなさい。私はここにいるから…」
いつも安心させてくれる、大切な千歌音の声と優しくなでてくれる掌。
いつかこの気持ちを千歌音に全部伝えよう。
そう思いながら、姫子は手を握ってくれた千歌音の手に自分の指を絡めて、ゆっくり意識
を手放した。

ゆっくりと千歌音の腕の中で丸まるように、眠っていた姫子が眼を覚ます。
添い寝をしてくれていたらしい千歌音も、姫子の体が動いた気配で眼を開けた。
眼が覚めたときに姫子が不安にならないように、背中に回っていた手がゆっくり離れ、す
でに消えた耳の名残を惜しむかのように頭に触れる。
全部が夢であったように、普通の[来栖川 姫子]に戻っているようだった。
「ごめんね、千歌音ちゃん…あんなことさせちゃって…」
姫子が唇を軽く何度か指でなぞった後、千歌音の腕の中ですまなそうに謝った。
「え?」
「だって、女の子同士なのに…無理やりお願いしちゃって…」
やっぱり昨日のあの会話は、姫子には覚えていられなかったらしい。
ちょっと千歌音は安心しながらも、どこかであの自分を抑えない姫子も好きだったから、
寂しさを覚える。
「…姫子が元に戻れたのだもの。十分、価値はあったわ」
隣にいたいからと、姫子が逃げないで前を見てくれた。
覚えてはいてくれなかったけれど、あのときの姫子は本当をくれたから。
千歌音も礼を言いたいくらいだったが、変に思われそうだから今は口にするのをやめた。
「あなたが望んでくれるなら…笑ってくれるなら何でもするわ…姫子」
その言葉がうれしくて、けれども何か伝えたいことがあったのに、忘れてしまったような
感じが悲しくて、姫子の眼から涙がこぼれる。
そんな姫子を泣き止むまで、何も言わずに千歌音は抱きしめ続けていた。

 

■後日談
「ただいま、千歌音ちゃん」
「お帰りなさい、来栖川さん。遅かったけれど何かあったの?」
ここ数日離れていた、普段どおりに戻った日常。
「ちょっと街まで行ってきたの。後で千歌音ちゃんの部屋に行ってもいいかな?」
姫子がごめんね。遅くなってという顔をして手をあわせると、心配そうだった千歌音の顔
もふっと緩んでいつもの温かい笑顔に戻る。
「ええ。何かあったの?」
「ちょっとこの間のことで…すぐ行くから待っててね」
途端に千歌音の表情がほんの少しだけ変わるが、その表情を見る前に、すぐ着替えてくる
からときびすを返した。

「はい、千歌音ちゃん。これ…」
姫子は千歌音の部屋に入るや否や、いそいそと手提げかばんの中から街で買ってきた包み
を取り出して、貰ってくれないかなと千歌音の手に包みをのせた。
部屋に入ってからどこか不安げな千歌音の表情が、戸惑いの表情に変わっていく。
「私に?」
「うん、あけてみて?」
小さくうなずいて、千歌音は包装紙を丁寧にはがしていった。その中には琥珀色の毛の猫
のぬいぐるみ。
「…姫子、これ…」
「千歌音ちゃんが撫で心地が良いって言ってくれたから…一番近い毛並みの子を探してき
たの…もしかしてぬいぐるみ嫌い?」
姫子が部屋の中を見回しても、千歌音の部屋にはぬいぐるみなど一つもなくて、子供っぽ
かったかと思ったけれど、初めてあの姿の自分の頭をなでてくれたときのいつもより
幼い笑顔をまた見たくて、つい買ってしまった。
気に入ってくれたなら、とてもうれしいけれど、受け取ってくれるだろうか?
「ありがとう…大事にするわね」
千歌音はそう言って大事そうに胸に抱きこんで、ゆっくりとその猫の背を撫でた。

-了-